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1 向田邦子
39
管理人

39 2011-9-6 15:24:11  [返信] [編集]

戒名「芳章院釋清邦大姉」

東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)生まれ。保険会社勤務の父親が転勤族であったため、幼少時から高等女学校時代まで日本全国を転々としながら育つ。東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現・実践女子大学)国文科卒業。

新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。その後雄鶏社に転職し。「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。 雄鶏社を退社し、脚本家、エッセイ、小説家として活躍する。

1981年(昭和56年)8月22日、旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。享年51。

法名は、芳章院釋清邦。墓所は東京都府中市の多磨霊園。墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」。遺品はかごしま近代文学館に寄贈され、常設展示されている。寄贈を決めた時の母・せいの言葉は「鹿児島に嫁入りさせよう」[1]であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%AD%90


本寿院 住職 三浦尊明
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1 宮脇俊三
39
管理人

39 2011-9-6 15:21:03  [返信] [編集]

戒名「鉄道院周遊俊妙居士」

、日本の編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。父は陸軍大佐で、後に衆議院議員となった宮脇長吉。娘に作家の宮脇灯子。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89


本寿院 住職 三浦尊明
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1 宮沢賢治
39
管理人

39 2011-9-6 15:14:37  [返信] [編集]

戒名「真金院三不日賢善男子」

1896年(明治29年)8月27日、岩手県稗貫郡里川口村(のちに花巻川口町から花巻町を経て、現・花巻市)に質・古着商の宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、戸籍の届出は1896年8月1日付けでなされた。
賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。また誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。この地震の際に母は賢治の入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという[2]。
浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育つ。弟に清六(1904年 - 2001年)、妹にトシ(1898年 -1922年)、シゲ(1901年-1987年)、クニ(1907年 - 1981年)がいる。
質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に当てる姿をたびたび目撃、これが賢治の人間形成に大きく影響したと見られる。
1903年(明治36年)、花巻川口尋常高等小学校に入学。エクトール・アンリ・マロの『家なき子』などの童話を好み、石や昆虫を採集し、綴り方に長じていた。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」と呼ばれる。父と有志が始めた「我信念」と題する仏教講話に参加。
1909年(明治42年)、旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく[3]。岩手山・南昌山などの山登りにも熱中し、南昌山では寄宿舎で同室の藤原健次郎(賢治より1学年上。1910年没)と水晶を採集する。哲学書を愛読。在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、大正2年(1913年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿する。
1914年(大正3年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。この時、看護婦に恋心を抱くが片想いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける[4]。
1915年(大正4年)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学。関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究をする。大正6年(1917年)、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』を創刊。短歌・小文などを発表する。
1918年(大正7年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し、卒業。4月、研究生となる。卒業で徴兵猶予の特典が無くなったため、徴兵検査を受けて第二乙種合格となる(当時は、第二乙種には兵役は課せられなかった)。 この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で研究生を退学処分となり、以後数年間に渡って保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。 同年肋膜炎を患い、医師の診断を受ける。このとき河本義行に「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされる。
1919年(大正8年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。この滞京中に友人宅で萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。近角常観の求道学舎にも訪れている。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。トシ回復とともに岩手に戻る。
1920年(大正9年)、研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会に入信。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが決裂(7月18日)。
1921年(大正10年)、1月23日家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう[5]。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。翌年11月にトシ病死。
1923年(大正12年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
1924年(大正13年)、4月、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。
1925年(大正14年)、7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。
1926年(大正15年)、3月末で農学校を退職。羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。またヒューマニストとして労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。
1927年(昭和2年)、3月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。
1928年(昭和3年)、6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
1931年(昭和6年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動も行った。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯独身であった。死の前日、農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している[6]。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状[2]には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている[7]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB

宮沢賢治記念館
http://www.miyazawa-kenji.com/kinenkan.html


本寿院 住職 三浦尊明
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1 宮城道雄
39
管理人

39 2011-9-6 14:58:04  [返信] [編集]

戒名「感奏院鴨誉最勝道雄居士」

8歳で失明し、生田流箏曲の二代菊仲検校に師事するも、その後兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事して11歳で免許皆伝となる。13歳のとき、一家で朝鮮の仁川へ渡り、箏と尺八を教えて家計を助ける。14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げ、伊藤博文に評価される。

その後京城(今のソウル)へ渡って頭角を現し、結婚して宮城姓を名乗る。そして1916年、大検校となった。1917年4月、上京するが間もなく妻が急死して翌年再婚した。

1919年、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催して作曲家としてデビュー。自作や古典曲の演奏を行う一方、古典楽器の改良や新楽器の開発を行い、十七絃、八十絃、短琴(たんごと…家庭用の琴)、大胡弓(だいこきゅう…大型の胡弓)などを発明した。

1929年に発表した「春の海」は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演され、世界的な評価を得ることになった。1932年に日、米、仏でレコードが発売されている。春の海は父親の故郷であり失明前に育てられた土地、福山市鞆町から見える鞆の浦にインスピレーションを受けて創作したもの。


宮城道雄記念館1956年6月25日未明、大阪の公演へ向かう途中、愛知県刈谷市の刈谷駅付近で夜行急行列車「銀河」に付き添いで同行している義理の姪(内弟子)と共に乗っていたが、この列車の昇降ドアから外へ出て列車の外に転落した事が原因で死亡した。当時は寝ぼけてトイレのドアと乗降口を間違えたなどの推測がなされたが、どれも信頼性がなく結局警察は自殺と認定している。しかし現在でも事故か自殺か、真相は不明のままである。なお、列車から落ちてすぐに死亡したのではなく、落ちた後に現場を通りかかった貨物列車の乗務員が線路脇にうずくまっている人を発見。すぐに通報を受けた刈谷駅の職員に助けられ豊田病院へと搬送されたあと午前7時15分に病院で死亡している。

命日の6月25日は遺作の歌曲にちなみ、「浜木綿忌」と呼ばれている。

神戸の旧居留地58番地(現:56番の三井住友銀行神戸本部ビル敷地内)に生誕地の碑が建ち、東京都新宿区に日本で最初の音楽家の記念館「宮城道雄記念館」が建つ。その曲風に、西洋音楽の息吹を感じられるのは、幼少の頃、神戸のレコード屋の前で熱心に立ち聞きして覚えた旋律にあると言われる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E9%81%93%E9%9B%84


本寿院 住職 三浦尊明
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1 源頼朝
39
管理人

39 2011-9-6 14:48:29  [返信] [編集]

戒名「武皇嘯厚大禪門」

、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。

平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。弟たちを代官として源義仲と平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。

なお、鎌倉幕府の成立は一般に広く認知されている1192年や1185年とされる説など諸説あるが1185年とする説が現在有力である。しかしながら学校などで教わる上では1192年とされることがほとんどである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D


本寿院 住職 三浦尊明
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