SiteNews
霊園管理局よりお知らせ
霊園BBS
参拝(投稿には無料登録下さい)
忌日カレンダー
亡くなった日のカレンダー
リンク
霊園関連のお役立ちリンク集
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
メインメニュー
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
検索

は行の方

は行で始まる方

1: 藤本義一(1)   2: 堀部安兵衛(1)   3: 橋本 龍太郎(1)   4: 別所長治(1)   5: 古河市兵衛(1)   6: 藤山雷太(1)   7: 藤山愛一郎(1)   8: 藤山寛美(1)   9: 平田篤胤(1)   10: 塙保己一(1)   11: 服部金太郎(1)   12: 蜂須賀忠英(1)   13: ポール牧(1)   14: 堀江しのぶ(1)   15: 舟橋聖一(1)   16: 藤田元司(1)   17: 藤沢周平(1)   18: 藤岡琢也(1)   19: 平賀源内(1)   20: 左甚五郎(1)   21: 土方歳三(1)   22: 樋口一葉(1)   23: パンチョ伊東(1)   24: 原敬(1)   25: はらたいら(1)   26: 林芙美子(1)   27: 花菱アチャコ(1)   28: 羽田健太郎(1)   29: 服部半蔵(1)   30: 長谷川一夫(1)  

 新規投稿 | スレッド表示 | ツリー表示 | 投稿順表示 | i-mode | トップ 
« 1 ... 5 6 7 (8)

1 双葉山
39
管理人

39 2011-8-28 14:00:43  [返信] [編集]

戒名「霊山院殿法日定大居士」

少年時代の負傷が元で右目が半失明状態(5歳の時吹矢が右目に当たったという)だったことや、右手の小指が不自由(事故で2度も右手の小指に重傷を負いその後遺症による)といったハンデを抱えながら、「木鷄」(もっけい=『荘子』にでてくる鍛えられた闘鶏が木彫りの鶏のように静かであるさま)を目標に相撲道に精進し、昭和屈指の大力士となった。

本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。年2場所の時代の力士であるがその数々の大記録は未だに破られていないものも多い。

日中戦争の泥沼化、太平洋戦争が間近に迫る時局もあり、国民的英雄となった。「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」という言葉の示す通り、まさに不世出の大横綱であり、「角聖」の異名で知られた明治の常陸山谷右エ門と並ぶ偉大な力士として「相撲の神様」「昭和の角聖」と呼ばれることも多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1

オフィシャルサイト
http://www.futabayama.jp/


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
全部読む 最新50 1-100 板のトップ リロード

1 福澤諭吉
39
管理人

39 2011-8-28 13:58:08  [返信] [編集]

戒名「大観院独立自尊居士」

日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。

諱は範(はん)。字は子囲(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐季後之福翁」。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった[1]。 現代では「福沢諭吉」と記載される事が一般的である[2]。 なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89





本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
全部読む 最新50 1-100 板のトップ リロード

1 平賀源内
39
管理人

39 2011-8-28 13:55:16  [返信] [編集]

戒名「智見霊雄」

讃岐国寒川郡志度浦[3](現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。平賀氏は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族だったが、戦国時代平賀玄信の代に甲斐の武田信虎・晴信父子に滅ぼされ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。のちに伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。

幼少の頃には掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる[4]。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大阪、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。物産博覧会を度々開催し、宝暦12年(1762年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るために辞職する[4]。

宝暦13年(1763年)には『物類品隲』を刊行[1]。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念する。源内は語学知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。

安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死、享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく、遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたとも伝えられる。

戒名は智見霊雄。墓所は総泉寺の移転前の台東区の敷地にあり、総泉寺自体が浅草に移転した後もそのままの場所に残されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
全部読む 最新50 1-100 板のトップ リロード

1 林家三平
39
管理人

39 2011-8-28 13:52:53  [返信] [編集]

戒名「志道院釋誠泰」

1925年11月30日、7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)(海老名竹三郎)の長男として東京根岸に生まれる。海老名榮三郎(えびな・えいざぶろう)と名づけられる。
1943年、明治大学付属明治中学校・高等学校(旧制では中学)を卒業
医師になるべく、千葉医科大学、慶應義塾大学医学部、日本医科大学、東京慈恵会医科大学進学を目指す
1945年3月、本土決戦部隊として陸軍に徴兵される
1945年10月、敗戦により兵長として復員
1945年、 復員後、本名を海老名泰一郎(やすいちろう)に改名。初舞台は松竹演芸場での通行人役
1946年2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。この名を生涯名乗り続けることになる。(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)
現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。
1946年4月、父親の独演会で初高座。
1947年 秋、東宝名人会において二つ目に昇進。
1949年10月20日、 父正蔵死去。芸界の孤児となる。
1949年、嘗て父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。二つ目である事実は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。
1950年4月22日、5代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。
1951年3月、二つ目昇進。(古今東西落語家辞典では、この時圓蔵に入門とあるがそれは誤りと思われる)
1952年、香葉子と結婚。仲人は3代目三遊亭金馬(東宝の父正蔵の同僚で、香葉子の育ての親)。
1952年、病気で一か月の入院生活
1952年、父正蔵から相続した土地を半分手放す。
1953年2月14日、第一子・美どり生まれる。
1954年、文化放送「浪曲学校」司会。
1955年、出口一雄により、KRテレビ(現:TBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢される。三平大ブームが巻き起こる。
経済的に苦しい生活からテレビ界の寵児に一夜にして変身。以後、死ぬまで大スターであり続ける。

1957年10月中席、上野鈴本演芸場で、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る。
1958年10月、真打昇進(初代林家三平として)。口上は大師匠8代目桂文楽が務める。なおこの真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、生涯初代林家三平の名を貫く。
1961年1月17日、第二子泰葉生まれる。
1962年12月1日、9代目林家正蔵(泰孝)生まれる。
1965年、日本テレビ「踊って歌って大合戦」司会。
1967年、日本テレビ「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以後1979年まで不定期に出演。私生活では家を新築。
1968年、落語協会(6代目三遊亭圓生会長)理事就任。終世、同職に。
1970年12月11日、二代目(泰助)が、末っ子として生まれる。
1975年 - 1976年、フジテレビ「三平・美どりのドキドキ生放送」娘・美どりと司会。
1978年5月、落語協会分裂騒動。師匠圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。
1979年正月、脳溢血で倒れ東京逓信病院に入院。一週間の昏睡の後、右半身が麻痺し、言語障害が生じたがリハビリを重ね、10月に奇跡の復帰[1]。
1980年9月7日、上野鈴本演芸場が最後の高座になった[1]。
1980年9月18日、肝臓癌で入院[1]。
1980年9月20日、逝去54歳没[1]。法名は、志道院釋誠泰。
同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子5代目月の家圓鏡(現8代目橘家圓蔵)、7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)らがいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AE%B6%E4%B8%89%E5%B9%B3_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)

オフィシャルサイト
http://www.sanpeido.com/



本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
全部読む 最新50 1-100 板のトップ リロード

1 花菱アチャコ
39
管理人

39 2011-8-28 13:47:50  [返信] [編集]

戒名「阿茶好院花徳朗法大居士」

1913年に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入り東明幸四郎と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の「鬼笑会」一座に入り、漫才に転向し「花菱アチャコ」を名乗り菅原家千代丸と組む。1919年に一度だけ横山エンタツと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わり、客からはみかんの皮を投げられるほどであった。

1925年、吉本興業に入社し、浮世亭夢丸、千歳家今男とコンビを組む。1930年、当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、横山エンタツとコンビを組む。当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。1934年、中耳炎にかかり入院、その間にエンタツは林正之助等との相談で上でコンビを解消する。エンタツは杉浦エノスケと組む。退院後は舞台では千歳家今男とのコンビを復活させたが、映画では引き続きエンタツ・アチャコのコンビを継続した。一方で「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。

第二次世界大戦終結後、吉本興業は一時演芸部門から撤退し全所属芸人との専属契約を解除するが、1939年の新興キネマによる吉本所属芸人の引き抜き騒動の際(アチャコも新興から契約金として当時としては大金である500円を既に受け取っていたが、林正之助に一喝されてそれを新興に返したという)、アチャコは吉本から「(吉本はアチャコの)面倒を一生みる」と一札取っていたため、唯一の例外として吉本興業との専属契約継続を認められた。結局この契約はアチャコが亡くなるまで継続されることになる。

戦後間もない時期には、長谷川一夫の『銭形平次捕物帳』など、映画の時代劇等でバイプレーヤーとしても活躍している。

1952年に長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化された。後番組で、引き続き浪花千栄子と共演した『お父さんはお人好し』も人気を博し、これも映画化された。1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えた。テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期には、「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」や「さいなもうー…」の台詞で一世を風靡した。

1963年にNHKで放映された「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」(構成:小林信彦)において、エンタツと久しぶりにコンビを組んで漫才を披露したが、ブランクを感じさせない名コンビぶりを発揮した。

1974年7月25日、直腸癌のため死去。77歳没。戒名は阿茶好院花徳朗法大居士。

芸名の「花菱」は、生家の家紋が由来である。「アチャコ」は、「鬼笑会」に所属してまだ無名だった頃、幕切れに先輩役者の「アッ!!」の合図で「チョン!!」と拍子木を打つ際に上手くいかず、先輩役者からつけられたあだ名「アチョンの子」が転じたものである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%8F%B1%E3%82%A2%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%B3


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
全部読む 最新50 1-100 板のトップ リロード

 新規投稿 | スレッド表示 | ツリー表示 | 投稿順表示 | i-mode | トップ 
« 1 ... 5 6 7 (8)

BluesBB ©Sting_Band