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1 藤田元司
39
管理人

39 2011-9-6 13:29:53  [返信] [編集]

戒名「元投院球心篤應居士」

愛媛県新居浜市出身。旧制愛媛県立新居浜中学校(現・愛媛県立新居浜東高等学校)在学中に終戦を迎え、学制改革に伴って新制愛媛県立西条北高等学校(現・愛媛県立西条高等学校)へ転校した。同校でバッテリーを組んでいたのがNHK高校野球中継の解説で有名だった池西増夫、同級生にフライ級プロボクサーで三迫ボクシングジム初代会長の三迫仁志がいる。[注釈 1]

慶應義塾大学へ進学後、オーソドックスなオーバースローから繰り出す快速球を武器に東京六大学リーグのスター選手として神宮球場を沸かせた。リーグ戦では通算63試合に登板して31勝19敗、227奪三振を記録したが、リーグ優勝は1年春の1回のみで、度重なる力投が報われず「悲運のエース」とも呼ばれた。

大学卒業後、日本石油を経て、1957年に大学の先輩である水原茂の誘いで読売ジャイアンツに入団(大学・社会人時代、後に西鉄ライオンズへ入団する花井悠とはチームメイトだった)。

入団1年目から17勝をあげて新人王に輝くと、1958年には29勝、1959年には27勝をあげてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続シーズンMVPを獲得した。

また、1959年6月25日に天覧試合として行われた対大阪タイガース戦では巨人の先発投手として晴れの舞台に立ち、完投勝利を挙げた。

しかし、日本シリーズでは奮闘するもなかなか日本一の栄冠に届かず、ここでも「悲運のエース」と呼ばれることとなった。1958年の日本シリーズにおいては、西鉄のエース・稲尾和久と並ぶ6試合に登板、防御率1.09を記録したものの、打線の援護なく1勝2敗に終わった。このシリーズでは、3勝1敗で迎えた第5戦、3-2と1点リードの9回裏2死3塁、あとアウト1つで日本一という場面まで迫ったが、このシリーズ不振だった関口清治に対し、胸元にシュートを投げ起死回生の中前タイムリーヒットを浴びている。結局この試合は稲尾のサヨナラホームランで西鉄が勝利、西鉄奇跡の逆転優勝につながるのだが、藤田によれば関口の打球は藤田の右肩口の上を力なく飛んでいったといい、「右手をちょいと出せば取れたのではないかと今でも思うことがあるよ」と後年になってもよく思い出していたといい、選手、監督として様々なタイトルや表彰に恵まれた藤田が「たった1つ取れなかったもの」とも語っている。[1]。

また、翌1959年の日本シリーズでは南海のエース・杉浦忠の4連投4連勝の陰で第2戦、第3戦、第4戦と3試合連続で先発、22イニングを投げたが(4試合シリーズでは杉浦の32イニングに次ぐ記録)、やはり奮闘報われず2敗を喫している。1958年第4戦から1961年第5戦にかけて5連敗という不名誉な日本シリーズタイ記録も持っている(他に村山実、北別府学)。その痩身と味方の貧打に耐え忍ぶ姿から、元司の音読みに掛けて「ガンジー」とも呼ばれた。

登板過多で肩を故障したことにより1960年以降は成績が急降下。1961年、1963年の日本一メンバーでもあるが、1961年の日本シリーズでは第3戦、第5戦に先発するもともに早い回でKO(第3戦は3回途中、第5戦では1回)、1963年の日本シリーズでは第2戦で城之内邦雄をリリーフして勝利投手になったものの4失点、第4戦では先発するも4回途中で降板と、エースらしい働きはできなかった。

1963年にコーチ兼任となり[2]、1964年に現役を引退。プロ入りの時期が遅かったこともあり、現役生活はわずか8年にとどまった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%85%83%E5%8F%B8


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1 藤沢周平
39
管理人

39 2011-9-6 11:40:00  [返信] [編集]

戒名「藤澤院周徳留信居士」

日本の小説家。山形県鶴岡市出身、本名小菅留治(こすげ とめじ)。

江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残した。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名である。

長女遠藤展子は、エッセイスト。2010年4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E5%91%A8%E5%B9%B3

鶴岡市立藤沢周平記念館
http://www.city.tsuruoka.lg.jp/fujisawa_shuhei_memorial_museum/index.html


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1 藤岡琢也
39
管理人

39 2011-9-6 11:37:26  [返信] [編集]

戒名「夢藤岡琢也零位」

1930年、姫路市にて会社員の父憲一の第一子として誕生。家族は妹2人を加えて5人家族。比較的裕福な家庭に育ち、成績は優秀だった。広島陸軍幼年学校在籍時に終戦を迎え、その後、兵庫県立姫路西高等学校を卒業。1949年、関西学院大学文学部に入学するが、翌年に病気のため中退。入院中にラジオ作家の堀江史朗の弟と知り合い、退院後、芸能界入りのため堀江を頼って上京した。1957年に劇団「葦」へ入団。当初は「平凡な顔立ち」という理由で、外国ドラマ・アニメなどの声優としての活動をしていた。

1966年、NHKの人気ドラマ『事件記者』に急逝した清村耕次の後任としてレギュラー出演し、俳優として世間に広く知られるようになった。引き続きNHKのドラマ『横堀川』に出演し、主人公を慕い協力する寄席芸人ガマ口役でその演技力を認められ、第4回ギャラクシー賞を受賞した。1967年には『ケンチとすみれ』でテレビ初主演。

映画にも数多く出演し、お調子者の中間管理職、中小企業の社長等を好演した。初の主演映画は1970年の『喜劇 がんばれ日本男児』。映画では、小狡い小悪党の役も巧くこなし、単なる善良な父親だけではない幅広い役柄を演じた。1967年頃から森繁久彌主演の映画『社長シリーズ』にも数本出演し、1970年には明治座において森繁劇団10周年記念公演に出演した。1985年から、森繁主演のテレビドラマシリーズである『おやじのヒゲ』に十数年にわたってレギュラーとして出演した。森繁からは公私共に弟のように可愛がられていたという。小林桂樹とも昔から共演が多くてとても仲が良かったそうで、晩年はツーカーの携帯電話のCMで一緒に共演した。

テレビでは、大阪を舞台とした商人もの、ホームドラマ、NHK大河ドラマ、東芝日曜劇場、2時間ドラマに数多く出演した。ホームドラマでは小太りで黒縁の眼鏡とヒゲが特徴的な風貌を持ち、家に帰ると和服に着替えて一杯飲むという一時代前の典型的な父親のイメージを努めて演じた。演じる役柄によっては関西弁を強調した話し方をすることもあり、藤岡自身のキャラクターとして確立した。このタイプの俳優として1960年代の森繁久彌があげられるが、その後継者の位置を確保することになった。

1984年の橋田壽賀子脚本『大家族』出演をきっかけに、その後多くの橋田作品に出演する。1990年よりスタートした『渡る世間は鬼ばかり』に、五人姉妹の父親である岡倉大吉役で出演。高視聴率番組となったため、その後は続編で十数年に渡って大吉役を演じて晩年の代表作となった。

1969年から2004年までの35年間、サンヨー食品の「サッポロ一番味噌ラーメン」のCMに出演した。(後任は木梨憲武が務めた)

2006年2月21日、肺炎のために『渡る世間は鬼ばかり』を降板(後任は宇津井健が務めた)。同年10月20日午後3時18分、慢性腎不全のため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。76歳没。戒名は「夢藤岡琢也霊位」。

2006年10月24日、増上寺において葬儀がとりおこなわれた。会場には生前本人が好きだったジャズ音楽が流された。『渡る世間は鬼ばかり』の石井ふく子プロデューサー、岡倉家の五人姉妹(長山藍子、泉ピン子、中田喜子、野村真美、藤田朋子)やドラマの共演者が葬儀に参列している。

弟子に藤井つとむらがいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B2%A1%E7%90%A2%E4%B9%9F


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1 平賀源内
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管理人

39 2011-9-6 11:29:50  [返信] [編集]

戒名「智見霊雄」

讃岐国寒川郡志度浦[3](現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。平賀氏は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族だったが、戦国時代平賀玄信の代に甲斐の武田信虎・晴信父子に滅ぼされ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。のちに伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。

幼少の頃には掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる[4]。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大阪、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。物産博覧会を度々開催し、宝暦12年(1762年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るために辞職する[4]。

宝暦13年(1763年)には『物類品隲』を刊行[1]。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念する。源内は語学知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。

安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死、享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく、遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたとも伝えられる。

戒名は智見霊雄。墓所は総泉寺の移転前の台東区の敷地にあり、総泉寺自体が浅草に移転した後もそのままの場所に残されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85

平賀源内記念館
http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/


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1 左甚五郎
39
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39 2011-9-6 11:25:32  [返信] [編集]

戒名「法橋宗恵匠誉信士」

逸話などでその存在さえも疑われているが、『日本歴史大辞典』(河出書房新社、1977年、原田伴彦執筆)など実在の人物として記述している文献も見られる。

足利家臣伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)播州明石に生まれた。父親の亡き後、叔父である飛騨高山金森家家臣河合忠左衛門宅に寄寓。13歳で京都伏見禁裏大工棟梁遊左法橋与平次の弟子となり彼になった。元和5年(1619年)に江戸へ下り、徳川家大工棟甲良(こうら)豊後宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。

江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者老中土井大炒頭利勝の女婿讃岐高松藩主生駒高俊のもとに亡命。その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)高松藩の客文頭領となったが、慶安4年頃(1651年)に逝去。享年58。

上記の経歴は左家の末裔・左光挙の著作『左甚五郎の事蹟とその後』(1964年)、『名工左甚五郎の一生』(1971年)による。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%94%9A%E4%BA%94%E9%83%8E


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