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1 服部金太郎
39
管理人

39 2011-10-4 13:48:28  [返信] [編集]

戒名「正道院杜溪日信士」

1860年、江戸の貧困な夜店商人の家に生まれる。
13歳より唐物屋に奉公し、1874(明治7)年から時計店に勤め、時計の修繕販売に従事する。
その後、1881(明治14)年に個人経営で時計小売業として服部時計店(現・セイコー株式会社)を開業した。
商売熱心だったため、早くも3年後には「東京時計商繁盛鏡」と言う時計商番付の最下段に登場した。 また、良い商品を仕入れていたため「浜の屋敷(横浜外国商館)」の信頼も得るようになった。 こうして実績を重ね銀座にも進出し、開業6年目にして服部時計店は時計販売の大手に育った。
当時、我が国の時計製造業は未発達ですべて輸入に頼っていたが、1892年に精工舎をおこし、掛時計・懐中時計・目覚まし時計の製造に着手。 欧米の技術を学び国産時計製造業の発展に尽し、ついに外国製品に比肩しうる精巧品の製造に成功した。第一次大戦時には欧米に輸出するに至った。 「SEIKO(セイコー)」はその商標である。「一人一業主義」を守り、始終時計業に専念した。
また赤十字社をはじめ、各種社会事業にも貢献した。1930(昭和5)年私財を投じて財団法人服部報公会を設立した。
墓所の入口が正面ではなく、先祖の墓より大きい。夫婦墓で妻の戒名が正面の左にある。コンクリートで墓地を敷き詰めてあるのも特徴。

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/02-28.html


本寿院 住職 三浦尊明
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1 蜂須賀忠英
39
管理人

39 2011-10-4 13:43:59  [返信] [編集]

戒名「興源院殿熙峯天庸大居士」

慶長16年(1611年)4月生まれ。徳川秀忠の偏諱を賜って忠英を名乗る。元和6年(1620年)、父の死去により跡を継ぐが、幼少のために祖父の蜂須賀家政が後見した。元和9年(1623年)9月10日、従四位下阿波守に叙任した。寛永2年(1625年)に藍方役所を設置し藍の流通統制を行った。寛永3年(1626年)8月19日、侍従を兼任。寛永6年(1629年)、家政による政務後見が名目上では終了したが家政の影響は寛永15年(1638年)に亡くなるまで残ったと考えられている。

寛永8年(1631年)、稲田示植を脇から淡路由良城代に、ついで洲本城代に移し淡路支配の体制を築くとともに要所である脇を直轄地とした。寛永9年(1632年)、自身の腹心である蜂須賀玄寅と長谷川貞恒を仕置家老に任じる。寛永10年、海部郡内7500石を領する江戸家老の益田長行が禁制を破って山林の木を伐採し、江戸で売ろうとしたことを藩の役人が摘発し、長行は領地を召し上げられ、その後13年間幽閉された。これを恨んだ長行は正保2年(1645年)までに忠英が幕府禁制を破り大船を建造し、さらに切支丹への宗門改めを怠っていると訴えた。正保3年(1646年)、幕府は評定所にて長行と長谷川貞恒を対決させた。結果、長行の訴えが虚偽であったとして長行の身柄は忠英に預けられ、阿波への移送中に病死したとも江戸屋敷にて斬刑されたともされる。この一連の騒動を海部騒動という。

また、至鎮が発布した御壁書二十三箇条を補完する裏書七箇条を発し、農民統制を図った。慶安5年(1652年)4月に死去し、跡を長男・光隆が継いだ。享年42。墓所は徳島県徳島市の興源寺。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%BF%A0%E8%8B%B1

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/04-16.html


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1 ポール牧
39
管理人

39 2011-9-6 13:58:06  [返信] [編集]

戒名「八葉院芸華一道居士」

、日本のコメディアン、タレント、元僧侶。北海道天塩郡天塩町出身。実家は曹洞宗寺院。北海道天塩高等学校卒業(同級生にラッシャー木村がいた)。血液型はAB型[1]。

本名は榛澤一道(はんざわ かずみち)。僧名は熈林一道(きりん いちどう)。

関武志とともにコント・ラッキー7を結成し人気を博した。リズム良く指を鳴らす「指パッチン」で知られた。 「ドーランの 下に涙の 喜劇人」は、彼が色紙にサインとともによく綴っていた句である。

K-1ファイターであるルスラン・カラエフなどの格闘家をマルプロジムへ連れてきていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%89%A7


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1 堀江しのぶ
39
管理人

39 2011-9-6 13:55:24  [返信] [編集]

戒名「麗光貞忍大戒名姉」

市邨学園高蔵高等学校(現・名古屋経済大学高蔵高等学校)在学中の1983年、クラリオンガールコンテストで平凡パンチ・アイドル賞を受賞しイエローキャブに所属。グラビア・ドラマ・バラエティーなどで、芸能界において各分野で活躍。翌1984年「ビキニ・バケーション」でアイドル歌手としてもデビューした。

しかし、1988年前半頃から腹痛や食欲不振などで体調を崩し、4月8日に緊急入院。その時点で、既に末期の「スキルス性胃がん」が卵巣にも転移しており(後に卵巣を全摘)、余命数ヶ月と診断されたが、本人には「卵巣嚢腫」とだけ告げて本当の病名を伏せていた。それから約5か月後の同年9月13日、わずか23歳の若さで逝去。最期の言葉は「わたし…仕事がしたい…」だったという。

生前は礼儀正しい人柄と性格の良さにおいても評判が高かったこともあり、彼女の夭折は故人の関係者やファンだけでなく、芸能界全体にも多大な衝撃を与えた。大の親友同士でもあったマリアンは彼女の死に涙にくれ、親子のように交流を持ち、他界直前に実姉をガンで亡くしていた横山ノックも、参列した葬儀の席で「ガンが憎い」と悲嘆したという。戒名は麗光貞忍大姉。

死後も、イエローキャブの社長・野田義治(現・サンズエンタテインメント社長)は、かとうれいこ、細川ふみえ、雛形あきこ、山田まりや、MEGUMI、小池栄子、佐藤江梨子といったアイドルタレントを世に送り出した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%B6


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1 舟橋聖一
39
管理人

39 2011-9-6 13:34:30  [返信] [編集]

戒名「文徳院殿青梅秀聖居士」

1904年(明治37年)12月25日に、東京市本所区横網町に生れた。キリストの降誕日にちなんで「聖一」と名づけられる。父は了助(東京帝国大学工科助教授)、母はさわ子。弟が3人に妹が1人いた。生後100日頃に不注意から父の百日咳がうつり、これが遠因となって晩年に至るまで喘息に苦しむこととなる。1909年(明治42年)に父がドイツへ留学したため、神奈川県腰越長山の母の実家の別荘に転居した。このころから祖母に連れられ、芝居見物をしていた。

1911年(明治44年)に腰越小学校に入学したが、父が戻り教授になったので、本郷区弥生町に移り、入学後5ヶ月で誠之小学校に転校。さらに1913年(大正2年)に東京府豊多摩郡落合村に移ったため、私立高千穂小学校に転校した。高千穂中学校卒業後、水戸高等学校に進学し、土方定一や、片柳真吉らと知り合った。さらに、舟津慶之輔の筆名で短歌・戯曲を発表し、同人雑誌『歩行者』に参加。また、小山内薫の門下生となった。

1925年(大正14年)に高校を卒業し、東京帝国大学文学部国文科に進んだ。河原崎長十郎を中心に、池谷信三郎、村山知義らとともに劇団「心座」を結成し、また文芸部雑誌『朱門』の同人となり、阿部知二らを知る。『朱門』創刊号に戯曲「信吉の幻覚」を発表、翌年に戯曲『痼疾者』が上演され、上司小剣や秋田雨雀に認められた。7月に佐藤百寿と結婚、10月に『新潮』に「白い腕」を発表した。1928年(昭和3年)、『文芸都市』の同人となり、阿部知二、井伏鱒二、梶井基次郎、外村繁らと「新人クラブ」を結成。翌年「心座」を退き、阿部、井伏らと『新文芸都市』を創刊。このほかにも、今日出海らと「蝙蝠座」を結成、小林秀雄、井伏鱒二らと「新興芸術派クラブ」を結成、『近代生活』の同人、飯塚友一郎らと「演劇学会」を創立、『あらくれ会』同人になり徳田秋声の門下生となるなど、盛んに活動した。この間に拓殖大学、明治大学講師を務めた。

1933年(昭和8年)に創刊した『行動』に発表した「ダイヴィング」は、行動主義、能動精神運動を起こし、大きな反響を呼ぶ。小林の勧めで『文学界』同人となり、さらに『行動文学』を創刊。1938年(昭和13年)、『文学界』に発表した「木石」で認められ、『新風平家物語』『北村透谷』『女の手』などを書いた。

終戦後は『小説新潮』に掲載した「雪夫人絵図」をはじめとする風俗小説で人気を得、1953年(昭和28年)には『花の生涯』を刊行。大老・井伊直弼を中心とした開国前後の幕末動乱期の人間模様を描いたこの作品は、最初のNHK大河ドラマとなった。また1999年(平成11年)にも『新・忠臣蔵』を原作とした「元禄繚乱」がNHK大河ドラマで放送された。

1966年(昭和41年)より眼病が悪化し、晩年は両眼ともにほぼ失明状態に陥ったが口述筆記で執筆活動を継続。1970年(昭和45年)より平凡社『太陽』に自らライフワークと位置付けた「源氏物語」の連載を開始。読売新聞にロングラン連載されていた「太閤秀吉」の完結を目前に1976年(昭和51年)1月13日、日本医科大学付属病院にて急死。「源氏物語」も含め、いくつかの作品が未完のまま遺された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9F%E6%A9%8B%E8%81%96%E4%B8%80


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