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1 初代 中村富十郎
39
管理人

39 2011-10-4 13:24:15  [返信] [編集]

戒名「蓮華院慶子日榮」

初代 中村富十郎(しょだい なかむら とみじゅうろう、1719年(享保4年) - 1786年8月26日(天明6年8月3日))は、享保中期から天明後期に活躍した上方の歌舞伎役者。屋号は天王寺屋。定紋は鷹の羽八ツ 矢車。俳名に慶子、雅号に琴嶺舎がある。

初代芳澤あやめの三男。兄に二代目芳澤あやめ、弟に三代目芳澤あやめがいる。

初名を芳澤崎彌といった。幼児のとき初代中村新五郎の養子となり、舞踊は初代中村京十郎の、地芸は父の初代あやめの薫陶を受ける。享保14年 (1719) に色子として舞台に。同16年 (1731) には江戸へ下り中村富十郎の名で市村座を勤める。同19年 (1734) には京都の都万太夫座で座本となり、以後三都で活躍。宝暦2年 (1752) には「極上上大吉」と評され最高位、天明5年 (1785) には「古今無類の妙 大至極上上吉」「歌舞伎一道総芸頭」に置かれた。

時代物と世話物を兼ね、若女形を本領としたが、晩年には立役も勤めた。特に舞踊には天才的才能を示した。なかでも宝暦三年 (1753)三月、江戸中村座で演じた『京鹿子娘道成寺』は大当たりした所作事で、今でも歌舞伎の人気演目として繰り返し上演されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%AF%8C%E5%8D%81%E9%83%8E_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-42.html


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1 初代 中村鴈治郎
39
管理人

39 2011-10-4 13:16:32  [返信] [編集]

戒名「玉林院成鴈日扇居士」

初代 中村 鴈治郎(しょだい なかむら がんじろう、安政7年3月6日(1860年3月27日) - 1935年(昭和10年)2月1日)は明治・大正の上方歌舞伎役者。屋号は成駒屋。定紋はイ菱。俳名に扇若・亀鶴、雅号に玩辞楼、浄瑠璃名に吉田玉太郎。本名は林 玉太郎(はやし たまたろう)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%B4%88%E6%B2%BB%E9%83%8E_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-50.html


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1 二宮尊徳
39
管理人

39 2011-9-5 12:39:11  [返信] [編集]

戒名「誠明院巧譽報徳中正居士」

相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に百姓利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。彼が5歳の時の1791年(寛政3年)8月5日、南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で田畑は砂礫と化し、父利右衛門の田畑も流失した。

14歳で父利右衛門が死去、2年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に預けられた。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功する。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強[1])を超えていたという伝承もある。 また体重は94kg[2]あったと言われている。

生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能を見込まれて、小田原藩大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(栃木県旧二宮町周辺、なお同町の町名の由来は二宮尊徳である。現在の真岡市)の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。下野国今市村(現在の栃木県日光市)報徳役所にて没。

尊徳の仕法は他の農村の規範となった。没後の1891年(明治24年)11月16日に従四位が追贈されている。

二宮尊徳をまつる『二宮神社』が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県真岡市にも二宮尊徳資料館がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3


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1 西周
39
管理人

39 2011-9-3 16:50:07  [返信] [編集]

戒名「周光院殿一雄貫道大居士」

石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鴎外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。

漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダ留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。

慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任[1]、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立につとめた。

1873年(明治6年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。

東京学士会院[2](現在の日本学士院)第2代及び第4代会長[3]、獨逸学協会学校の初代校長を務めた。1890年(明治23年)には貴族院議員となる。1897年(明治30年)1月31日に死去、享年68。墓所は東京都港区の青山霊園。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%91%A8_(%E5%95%93%E8%92%99%E5%AE%B6)




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1 中村八大
39
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39 2011-9-3 16:47:52  [返信] [編集]

戒名「浄奏院法永学雄日大居士」

中国大陸で出生後、1945年に福岡県久留米市へ引き揚げ、そこで旧制中学校時代を過ごす[1]。
旧制中学明善(現・福岡県立明善高等学校)、早稲田大学高等学院、早稲田大学文学部卒業。
学生時代からピアニストとして活動。早稲田大学高等学院在籍時には、ダンスバンド『谷口安彦とプレミア・スウィング』や人気学生コンボの『レッド・ハット・ボーイズ』などに客演するようになった。
早稲田大学に進学してからは、ジョージ川口、松本英彦、小野満と共にジャズバンド「ビッグ・フォー」を結成していた。
その活躍ぶりが、当時早稲田大学のベーシストだった渡辺晋(後の渡辺プロダクション創業者)の耳にも届き、早稲田大学文学部に進学後 兄・二大を通じて渡辺晋と対面。渡辺が結成していたコンボバンド『ファイヴ・ジョーズ&ア・ジェーン(後の『渡辺晋とシックス・ジョーズ』)に加入した。しかしながらアーテスト志向の中村とエンターテナー志向の渡辺とでは意見を異する場面もあり結局、渡辺と袂を分かち1953年からはドラマーのジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバーとなり、当時の日本における大衆的ジャズブームの渦中で非常な人気を得た。
その後、1950年代末からは作曲家としての活動に主軸を転じ、ジャズのセンスを生かした特異な作風で、それまでの日本の歌謡曲とは一線を画したユニークな歌曲を多く作った。永六輔とのコンビ(ともに早稲田大学出身)で多くのヒット作を世に送り出したことから、『六・八コンビ』と呼ばれる(「上を向いて歩こう」など二人の歌をしばしば歌った歌手の坂本九を合わせて、『六・八・九』と呼ばれることもある)。
1959年の『黒い花びら』(作詞・永六輔、歌・水原弘)で、第1回日本レコード大賞を受賞。
1963年の『こんにちは赤ちゃん』(作詞・永六輔、歌・梓みちよ)で、第5回日本レコード大賞を受賞。
1966年1月、ミュージカル「宝島」の音楽担当。
1966年10月、第1回リオデジャネイロ国際音楽祭に、江利チエミの『私だけのあなた』を出品。オーケストラ編曲賞を受賞。
1970年からはNHK総合テレビ「ステージ101」の音楽監督を務めた。
1992年6月10日、心不全のため他界。享年61。晩年は持病の糖尿病に苦しみ音楽活動の一線からは退いていた。
葬儀は浄土真宗で行ったが、77日忌は日蓮宗にて行われた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%AB%E5%A4%A7




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