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1 武田信玄
39
管理人

39 2011-8-28 11:52:41  [返信] [編集]

戒名「法性院機山信玄」

戦国時代(室町時代後期)の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。

甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し信濃で病没した。

江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』[2])に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

http://www3.ocn.ne.jp/~t-page/index.html




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1 貴ノ花
39
管理人

39 2011-8-28 10:36:49  [返信] [編集]

戒名「双綱院貴関道満居士」 菩提寺から
  「誠生院法憲祐幸智徳善士」 霊友会から

北海道室蘭市で10人兄弟の末っ子として生まれる。初代若乃花と若緑陸奥之丞(三段目)の弟。元横綱・3代目若乃花でタレントの花田勝と一代年寄貴乃花光司の父。母は武ノ里武三の又従姉。夫人は元女優でタレントの藤田憲子(2001年(平成13年)離婚)。

誕生した時、すでに長兄の勝治(若乃花)は成人し幕内力士となっており、巡業がてら帰省した際に弟ができたと聞かされ「最初は両親ではなく別の親族の子供だと思っていた。いい加減何人産むつもりなんだ。」と半ば呆れたという。杉並区立東田中学校在学中に水泳(専門はバタフライ、メキシコ五輪代表でメダルも期待された高田康雄とライバル関係にあり、二人で交互に中学記録を更新した)で名を上げ、オリンピック選手の候補になるほどだった。

しかし兄である二子山(初代若乃花)の相撲部屋への入門を希望。二子山はもう一人の弟である陸奥之丞が失敗するのを目の当たりにしていたため猛反対した。また二子山はあるテレビ番組で『東京オリンピックのショランダーの活躍を見て、弟には相撲よりも水泳のオリンピック選手になってもらいたかった。』と語った。結局母が説得してくれたので、「いいか、今日からは父(22歳離れた兄である勝治は父が若くして亡くなった後は、兄弟たちの父代わりだった)とも兄とも思うな、敵だと思え」と兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。後に巷間に名言として伝わった「水泳じゃメシは食えない(から力士になろうと思った)」という発言については、師弟揃って否定している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E3%83%8E%E8%8A%B1%E5%88%A9%E5%BD%B0




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1 田岡一雄
39
管理人

39 2011-8-28 10:32:54  [返信] [編集]

戒名「永照院仁徳一道義範大居士」


1913年(大正2年) 、徳島県三好郡三庄村(のち三加茂町、現東みよし町)大字西ノ庄高木の貧しい小作農家に三女、二男の次男として生まれる。父はすでに病没していた。
1919年(大正8年)、三庄村尋常小学校1年生のとき母親を過労で亡くし、一人だけ叔父の河内和四郎(鐘紡専属の荷役現場監督)に引き取られて神戸市兵庫区浜山通6丁目に転居。貰い子として叔母から冷遇され、酒飲みの叔父からは暴力を受けて育つ。
1925年(大正14年)浜山小学校を卒業そして兵庫尋常高等小学校高等科へと進学した。1927年(昭和2年)卒業後、地元の川崎造船所に旋盤見習工として入社するが2年後の1929年(昭和4年)に現場主任を殴打して退社した。
兵庫尋常高等小学校高等科で山口組二代目山口登の弟山口秀雄と同級生だったことから、秀雄の誘いで叔父の家を出て、二代目山口組のゴンゾウ部屋に世話になり、夜警の仕事に従事しつつ、クスボリ(うだつのあがらぬ不良)グループに加わっていた[1]。仲間内では喧嘩相手の目を指で突く手口で恐れられ、「クマ」と呼ばれた。1930年(昭和5年)、山口組が用心棒を務める芝居小屋で小屋主の態度に腹を立て、芝居を上演中の舞台の花道に土足で乱入する騒動を起こす(湊座事件)。これがきっかけとなり、山口登の舎弟の古川松太郎に預けられて三下修業を積み、1936年(昭和11年)1月20日には二代目山口組の組員となる。この間、1932年(昭和7年)には、幕内力士の宝川が山口登の舎弟の大関玉錦を侮辱したとして宝川を短刀で襲撃し、指2本を切断した上、額を割る事件を起こす。1934年(昭和9年)には、海員組合の労働争議に介入した山口登の舎弟・西田幸一が組合員たちに殺害されたことへの報復で争議本部を襲撃し、組合長に斬りつけて九州に逃亡。のち神戸相生橋署に出頭し、傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所で服役している。
1937年(昭和12年)2月25日、山口春吉の舎弟に暴力を振るった大長政吉を福原遊廓で襲撃し、鉄瓶で殴打して頭を割る。その報復で山口組に殴り込みをかけた大長八郎(政吉の弟)を返り討ち、日本刀で刺殺。このため殺人罪で逮捕起訴され、神戸地裁で懲役8年の実刑判決を受け、神戸刑務所、大阪刑務所、膳所刑務所、京都刑務所、高知刑務所で服役する。獄中では、みずから崇拝する頭山満や玄洋社に関する本を読んでいた[2]。皇紀2600年の恩赦で1943年(昭和18年)7月13日に出所した。
二代目組長の山口登は前年の1942年(昭和17年)既に死亡していたので、その後 湊川で自ら田岡組を組織した。
戦後の混乱で警察力が弱体化し治安の悪い神戸の町と闇市を三国人から守るために自警団を組み、頭角を現し、二代目の死後、長らく不在の山口組三代目へ推す声が高まった。[3]
1946年(昭和21年)10月、組の長老たちの推薦により、山口組三代目を襲名した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B2%A1%E4%B8%80%E9%9B%84


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1 大松博文
39
管理人

39 2011-8-28 10:29:07  [返信] [編集]

戒名「最勝院克堂博文居士」

坂出商業学校から関西学院大学(高等商業部)に進学したのち、ニチボーに入社。

1941年(昭和16年)、陸軍に召集され、中国・ビルマ・ラバウルを転戦する。中隊指揮官を務めた際、自分より年配の兵士が指揮に従ってくれるよう、自ら率先して行動をとった。その後第31師団下に配属され、インパール作戦に従軍。「白骨街道」とも呼ばれる悲惨な戦場からの数少ない生還者の一人でもある。これら経験が、彼の性格を大きく変える出来事となった。

1954年(昭和29年)、ニチボー貝塚女子バレーボール部監督に就任。「鬼の大松」[1]と呼ばれるほどの徹底したスパルタ式のトレーニングは世間を騒がせるほどであった。

1958年(昭和33年)には、当時の日本国内の四大タイトル(全日本総合、全日本実業団、都市対抗、国民体育大会)を独占した。

1961年(昭和36年)、ヨーロッパ遠征での全勝により、チームを「東洋の魔女」と呼ばれるほどの成長を遂げさせた。

1962年(昭和37年)、第4回女子世界選手権で優勝。

1964年(昭和39年)、東京オリンピックでは、全日本女子バレーボールチームを、「回転レシーブ」に象徴される守備を重視した戦法により金メダルに輝かせる。選手への『おれについてこい!』『なせば成る』(上杉鷹山の言から引用。)などの名文句からは著書を生み出し、『おれについてこい!』は同タイトルで映画化もされた[2]。

1964年(昭和39年)末、ニチボーを退社。

1965年(昭和40年)、周恩来の招きにより中国を訪問し、中国女子バレーチームの礎に貢献した。

電通に入社したのち、1968年(昭和43年)、第8回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党公認で立候補し、初当選。[3]

1974年(昭和49年)、再選を目指して第10回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党公認で立候補するも、落選。

その後は、再びバレーボール界に戻り、各地で指導活動を行う他、イトーヨーカドーバレーボール部の創部に参加、技術顧問を務めた。

その直後の1978年(昭和53年)、心筋梗塞により、57歳で他界。戒名は最勝院克堂博文居士。

2000年(平成12年)、アメリカのスポーツ記念館にて、バレーボール殿堂入りとなる。また香川県宇多津町の名誉町民を受けており、また同町では大松の名前を冠する「大松杯バレーボール大会」が開催されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%BE%E5%8D%9A%E6%96%87


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