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高木 祐芳
39
管理人

高木祐芳 2015-8-30 15:29:05  SITE  MAIL  [返信] [編集]



高木祐芳(祐心)

土仏祐心大和尚位

昭和14年11月6日出生
平成27年1月11日逝去

1939年、和歌山県新宮市にある高禅寺の次男として出生。

新宮高校卒後、専修大卒。幼少の頃より仏教美術に関心をもつ。

美濃・九谷で陶芸を学び、その豊かな感性が評価され、土仏師の第一人者として活躍。

高島屋、伊勢丹、京王百貨店などをはじめ全国各地で「つちぼとけ展」を開催している。

かたわら各地のカルチャーセンターで講師を務める。現在、神奈川県平塚市の円宗院・院主を務める

『写仏 えんぴつで「十三仏」を描き心を清めましょう」出版


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
太平シロ−
39
管理人

39 2013-5-8 10:32:08  [返信] [編集]

戒名「芸華博道信士」

大平 シロー(たいへい シロー、本名:伊東 博、1956年10月30日 - 2012年2月9日)は、日本の喜劇役者、芸人、お笑いタレント、放送作家。大阪府泉大津市出身。泉大津市立誠風中学校、大阪府立泉大津高等学校卒業。死去時の所属事務所は吉本興業東京。血液型はB型。一時期太平 詞郎と名乗っていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%83%BC


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
団鬼六
39
管理人

39 2011-12-2 13:24:49  [返信] [編集]

戒名「戯生院法幸団徳信士」

団 鬼六(だん おにろく、1931年4月16日(戸籍上は9月1日) - 2011年5月6日)は、日本の小説家・脚本家・演出家・エッセイスト。滋賀県彦根市生まれ。官能小説の第一人者として著名である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E9%AC%BC%E5%85%AD


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
立川談志
39
管理人

39 2011-12-2 12:56:59  [返信] [編集]

戒名「立川雲黒斎家元勝手居士」

当代(7代目、ただし自称5代目)立川 談志(1936年(昭和11年)1月2日 - 2011年(平成23年)11月21日)は、落語家、落語立川流家元。本名、松岡 克由(まつおか かつよし)。

東京府(現在の東京都)出身。政治家として参議院議員を1期、沖縄開発庁の政務次官を36日間務めた。サイバー大学客員教授。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97


本寿院 住職 三浦尊明
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隆の里
39
管理人

39 2011-11-15 11:12:03  [返信] [編集]

戒名「隆昌院忍岳俊道居士」

青森県南津軽郡浪岡町(現在の青森市)出身で二子山部屋所属の元大相撲力士、第59代横綱。本名は高谷俊英(たかや としひで)。現役時代は身長183cm、体重159kg。得意手は、右四つ、上手投げ、吊り、寄り。引退後は年寄・鳴戸を襲名。鳴戸部屋師匠として稀勢の里、若の里、隆乃若ら7人の関取を育成した。血液型はO型。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E3%81%AE%E9%87%8C%E4%BF%8A%E8%8B%B1




本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
田代雄哉
39
管理人

田代雄哉 2011-11-7 9:56:39  SITE  MAIL  [返信] [編集]

平成22年12月27日          

泰心寺 住職

田代雄道大僧正  遷化されました。

http://taishinji.com




バイオリン演奏

http://www.youtube.com/watch?v=yMNH6UvHy7M&feature=player_embedded&noredirect=1


本寿院 住職 三浦尊明
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徳川秀忠
39
管理人

39 2011-10-6 16:28:57  [返信] [編集]

戒名「台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士」

徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室・西郷局。母の実家・西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。

同母弟に、関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に織田信長の命令で切腹している。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。

天正18年(1590年)には上洛し、元服して、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより、離縁となる。秀吉から、豊臣姓を与えられる[1]。 その後、中納言に任官し、「江戸中納言」と呼ばれる。文禄4年(1595年)には秀吉の養女・江と再婚する[2]。 秀吉からは、羽柴の名字を与えられる[1]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。信濃国上田城攻めで手間取り、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。

9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分がすぐれない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0


本寿院 住職 三浦尊明
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東条英機
39
管理人

39 2011-10-4 12:29:53  [返信] [編集]

戒名「光寿無量院英機居士」

東條 英機(とうじょう ひでき、1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条 英機(とうじょう ひでき)とも表記される[2]。

陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/04-52.html


本寿院 住職 三浦尊明
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桃中軒雲右衛門
39
管理人

39 2011-10-4 12:25:34  [返信] [編集]

戒名「桃中軒義道日正居士」

桃中軒 雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん、1873年10月25日 - 1916年11月7日)は、日本の浪曲師。亭号は沼津駅の駅弁屋である桃中軒に由来する。名は修行時代に兄弟分であった力士の「天津風雲右衛門」に由来するとされる(石谷華堤および正岡容の説、他に諸説あり)。

本名は山本幸蔵。従来「岡本峰吉」とされていたのは、本人がそのように名乗り周囲に語っていたためで、「峰吉」は弟(三男)の本名である。雲右衛門が本名や出生地について敢えて嘘を語っていたのは、当時強く残っていた大道芸人に対する差別にも一因があると思われる。

父は地方回りの祭文語りをしていた吉川繁吉(本名: 山本繁吉)で、その二男として生まれる。母・ツルは三味線弾きであった。出生地は群馬県西群馬郡高崎町(現在の高崎市)。従来、茨城県結城市説や埼玉県熊谷市説などがあり、はっきりしていなかったのは、恐らく本人の意図的なカモフラージュによるものだろう。

最初は吉川小繁を名乗り、ヒラキや流しなどをしていた。父の没後、その名である2代目吉川繁吉を襲名し、寄席への進出も果たす。その後、横浜で中京節の初代三河家梅車と興行を共にした時、梅車に虐待されていた夫人のお浜に同情して恋仲となり、そのまま駆け落ちして結婚したため関東に戻れず、京都を経て九州へと至り修行を積む。その過程で従来の関東節に加えて、関西節や、九州で当たりを取っていた美当一調の改良浪花節を自家薬籠中のものとして、後の雲節を生み出していった。

1903年(明治36年)、桃中軒牛右衛門の名で雲右衛門に弟子入りしていた宮崎滔天や、福本日南、政治結社玄洋社の後援で「義士伝」を完成させる。武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座や東京本郷座で大入りをとった。雲右衛門の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の劇場への進出を可能にし、浪曲そのものも社会の各階級へ急速に浸透していくことになる。

しかし1913年(大正2年)ごろから、肺結核に罹ったことと、それまでの放蕩が祟って極貧生活に陥り、かつての弟子・宮崎が自宅に引き取って看病した甲斐もなく、1916年(大正5年)11月7日に死亡した。墓所は東京都品川区の天妙国寺。

孫に、超常現象研究者の中岡俊哉がいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-12.html


本寿院 住職 三浦尊明
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長宗我部元親
39
管理人

39 2011-10-4 12:17:16  [返信] [編集]

戒名「雪蹊恕山大禅定門」

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土佐国の戦国大名。

長宗我部氏第19代当主・長宗我部国親の長男で、第20代当主。母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。諱の「元親」は管領細川晴元の偏諱を受けたものである。側室に明智光秀の妹の娘がいる。

土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予国の西園寺氏・河野氏らと戦い四国の覇者となる。しかし、その後織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/04-29.html


本寿院 住職 三浦尊明
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田村俊子
39
管理人

39 2011-10-4 11:58:10  [返信] [編集]

戒名「釋尼文俊」

田村 俊子 (たむら としこ、女性、1884年(明治17年)4月25日 - 1945年(昭和20年)4月16日) は、日本の小説家。別名、佐藤露英、佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京浅草(現在の台東区)蔵前生れ。東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E4%BF%8A%E5%AD%90

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/01-46.html


本寿院 住職 三浦尊明
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武田信清
39
管理人

39 2011-10-4 11:53:10  [返信] [編集]

戒名「虎山玄竜居士」

信清については『甲斐国志』人物部や『上杉家御年譜』に記され、武田信玄の七男(六男説も)、母は信濃小県郡の禰津氏の娘である禰津御寮人であるという。幼名は大勝。正室は甲府長延寺実了の娘。継室は平田常範の娘。子に勝信、時信、女子(本庄重長正室)。色部清長は孫にあたる。

永禄10年、巨摩郡加賀美(南アルプス市、旧中巨摩郡若草町)の法善寺に入り、玄竜と号した。後に兄・勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し安田三郎信清と名乗り、海野城の城主となる。

1582年の武田氏滅亡後、上杉景勝の正室となっていた異母姉である菊姫の縁を頼って上杉氏に寄寓し、上杉家一門・高家衆筆頭として3300石を領し、武田姓に復帰した(米沢武田家)。1614年、大久保長安の事件で幕府から嫌疑を受けるも、事実無しとされ帰領。

1642年、83歳で死去。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%B8%85

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/04-56.html


本寿院 住職 三浦尊明
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高山樗牛
39
管理人

39 2011-10-4 11:38:29  [返信] [編集]

戒名「文高院靈岱謙光日贍居士」

高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、 1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/03-40.html


本寿院 住職 三浦尊明
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高田屋嘉兵衛
39
管理人

39 2011-10-4 11:34:08  [返信] [編集]

戒名「高誉院至徳唐貴居士」

淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)の農民の子として生まれる。漁業に従事し、18歳で兵庫へ出て廻船業者を志して出て、淡路と大坂とを往復する瓦船に乗る。1790年に樽廻船の水主から、船頭となる。紀州での鰹漁や、和泉屋伊兵衛のもとで船頭となり酒田へ航海して資金を貯める。寛政7年(1795年)には、兵庫の北風家の助けを得て、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。

近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。また、箱館(函館)の北洋漁業の基を築いた功労者である。近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行った。択捉島は鱒・鮭が豊富で、嘉兵衛は17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に資した。

享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。

文化3年(1806年)、箱館の大火で街の大半を焼失した時、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行なっていった。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施した。造船所も建設し、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造していった。

文化9年(1812年)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、翌年帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力した。また、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられた。1818年に隠居し、59歳で死去。

なお、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/02-5.html


本寿院 住職 三浦尊明
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高橋お伝
39
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39 2011-10-4 11:19:10  [返信] [編集]

戒名「聞外妙傳大姉・榮傳信女」

高橋 お伝(たかはし おでん、本名:高橋でん、嘉永3年(1850年) - 明治12年(1879年)1月31日)は強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなった。上野国利根郡下牧村(現群馬県利根郡みなかみ町)出身。「明治の毒婦」と称された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E3%81%8A%E4%BC%9D

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-34.html


本寿院 住職 三浦尊明
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竹久夢二
39
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39 2011-10-4 11:13:07  [返信] [編集]

戒名「竹久亭夢生楽園居士」

数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。

彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれ(軸物や屏風仕立てで遺る)、また、洋画(キャンバスに油彩)技法による女性像や風景画ものこされている。好んでさまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。

世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。生涯の後期にいたっては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。

画集・詩文集・童話は21世紀に入ってもさまざまな装丁で刊行されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B9%85%E5%A4%A2%E4%BA%8C

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/03-84.html


本寿院 住職 三浦尊明
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初代 竹本義太夫
39
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39 2011-10-4 11:08:31  [返信] [編集]

戒名「釋道喜」

初代竹本 義太夫(たけもと ぎだゆう、慶安4年(1651年) - 正徳4年9月10日(1714年10月18日))は、江戸時代の浄瑠璃太夫。浄瑠璃の義太夫節の創始者である。初期には清水理太夫と名乗る。本名五郎兵衛。

摂津国(大坂)に生まれる。農家の出身。貞享元年 (1684)、大坂道頓堀に竹本座を開設し、1683年に刊行された近松門左衛門・作の『世継曽我』を上演した。翌年より近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。

近松が竹本座のために書きおろした最初の作品は『出世景清』。この作品より前のものを古浄瑠璃、以後のものを当流浄瑠璃と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃に与えた。

元禄14年 (1701) に受領し筑後掾と称す。同16年には近松の『曽根崎心中』が好評となって竹本座経営が安定し、座元を引退して竹田出雲に引き継ぐ。正徳4年に死去、享年63。

墓所は大阪市天王寺区の超願寺。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E5%A4%AA%E5%A4%AB

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-45.html


本寿院 住職 三浦尊明
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豊田佐吉
39
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39 2011-9-3 16:21:24  [返信] [編集]

戒名「顕本院殿行徳圓大居士」

慶応3年(1867年)2月14日 - 遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)の貧しい農家兼大工[1]の家に生まれた。
佐吉は小学校を卒業した後、父伊吉のあとを継いで大工の修業を始めたが、十八歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な機織機の改良を始めた[2]
明治23年(1890年)11月 - 「豊田式木製人力織機」を発明。
明治30年(1897年) - 「豊田式木製動力織機」を発明。
明治32年(1899年) - 井桁(いげた)商会設立。
明治39年(1906年)12月 - 豊田式織機会社創立。
明治43年(1910年)5月 - 紡織業視察のため欧米へ。
大正7年(1918年)1月 - 豊田紡織株式会社創立。
大正10年(1921年)11月 - 上海に豊田紡績廠創立。
大正13年(1924年) - 「G型無停止杼替式豊田自動織機」発明・完成。[3]
大正15年(1926年)11月 - 株式会社豊田自動織機製作所創立。
昭和5年(1930年)10月30日 - 死去。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E4%BD%90%E5%90%89



本寿院 住職 三浦尊明
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唐人お吉
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39 2011-9-3 15:46:13  [返信] [編集]

戒名「釈貞歓尼」

斎藤 きち(さいとう きち、天保12年11月10日 / グレゴリオ暦 1841年12月22日 - 1890年3月27日[1])は、幕末、明治期の伊豆国下田の芸者である。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる[1]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E3%81%8D%E3%81%A1


本寿院 住職 三浦尊明
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東郷青児
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管理人

39 2011-9-3 15:43:38  [返信] [編集]

戒名「青濤院殿釈鉄真居士」

日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。

独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。

なお、彼の画風は弟子にあたる安食一雄に受け継がれている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E9%9D%92%E5%85%90


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/

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