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1 関孝和
39
管理人

39 2011-9-2 13:48:07  [返信] [編集]

戒名「法行院殿宗達日心大居士」

生年は寛永12年(1635年)から寛永20年(1643年)の間で諸説あり、はっきりしない。上野国藤岡(現在の群馬県藤岡市)で生まれたという説と、江戸(現在の東京都)で生まれたという説がある。実父が寛永16年に藤岡から江戸に移っているので、生年がそれ以前ならば生地は藤岡、それ以後なら生地は江戸と推測される。関の生涯については、あまり多くが伝わっていない。養子である関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである。

若くして関家の養子となる。幼少時から吉田光由の『塵劫記』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重・綱豊(徳川家宣)に仕え、勘定吟味役となる。綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。孝和は甲府藩における国絵図(甲斐国絵図[1])作成に関わり、また改暦に備えて授時暦を深く研究して改暦の機会を窺っていたが、その後渋川春海によって貞享暦が作られ、暦学において功績を挙げることは叶わなかった。

関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に宋金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術、てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。行列式や終結式の概念を、世界で最も早い時期に提案したことはよく知られる。

また、1681年頃には暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、正131072角形を使って小数第11位まで算出した[2][3]。本計算では エイトケンの加速法を用いており、世界的にみても数値的加速法の最も早い適用例の一つである(西洋でエイトケンの加速法が再発見されたのは1876年、H.von.Nägelsbachによってである[4][3]。)。ヤコブ・ベルヌーイと同時期にベルヌーイ数を発見していたことも知られている。

西洋の微分積分学の発展とは独立に、方程式の求根の際に導関数に相当するものを計算したり、求長や求積に関する業績を挙げている。これをもって、ニュートンやライプニッツよりも前に微分積分学を創始したと語られることがあるが、関が微分と積分を結びつけたという事実はなく、これは妥当な評価とはいえない[5]。

宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去した。牛込弁天町(現在の東京都新宿区)の浄輪寺に葬られている。弟子に建部賢弘、荒木村英がいる。関の死後、その学統(関流)は目覚ましく発展し、山路主住に至り免許制度などを整え、和算の圧倒的な中心勢力になる。有力な和算家はほとんどが関流に属するようになっていった。

関孝和は関流の始祖として、算聖と崇められた。明治以後、和算が数学にとって代わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。上毛かるたにおいて、関孝和は「和算の大家 関孝和」と詠われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D%E5%92%8C


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1 鈴木ヒロミツ
39
管理人

39 2011-9-2 13:44:28  [返信] [編集]

戒名「美雄永満愛大喜善居士」

満州生まれ。私立芝高等学校卒業。武蔵大学経済学部中退。東京都文京区旧・小日向台町出身。

1967年にデビュー(結成は前年)したザ・モップスのボーカリストとして芸能界入り。モップス時代は「鈴木ひろみつ」「鈴木博三」とも表記。

詳細は「ザ・モップス」を参照

ザ・モップスが1974年に解散して以降、俳優・タレントとして活躍。1971年に放映されたモービル石油のCM「のんびり行こうよ」編ではガス欠のクラシックカーを押す青年の役を演じ、昭和の名CMの一つとなった。1974年からTBSで放送された大映テレビ製作の刑事ドラマ『夜明けの刑事』、『新・夜明けの刑事』、『明日の刑事』にうだつの上がらない刑事役で出演、エンディング・テーマも担当した。

芸能界きっての美食家としても知られ、紀行番組のグルメリポーターとしても活躍、2002年に自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本『食わずに死ねるか!』を出版した。

また、大の中日ドラゴンズのファンで(実の母親が名古屋市生まれだった)、東海テレビのドラゴンズ応援番組『ヒロミツのスーパードラゴンズ』(『ドラゴンズHOTスタジオ』の前身)ではメイン司会を務め、多くの選手や首脳陣と親交があった。しかし番組内で「こんなことなら、星野ドラゴンズって名前を変えればいいんですよ」と星野仙一監督を批判、このことが原因で番組を降板している。

NHK教育テレビで、中学生向けの英語番組の司会もつとめていた。

2007年3月14日午前10時02分、肝細胞癌のため東京都千代田区の病院で死去。60歳没 。医師の診察を受けた際には既に病状が進行しており、告知も冷静に受け止めた。入院治療より家族とともに過ごすことを選んだ。戒名は「美雄永満愛大喜善居士」で、その戒名は生前に決めていたと言う。戒名には自分の名や家族の名前の一部が入っており、家族を愛する気持ちが込められている。亡くなる1週間前に行ったインタビューと、病床で書いた妻と子供への手紙をまとめた単行本『余命三カ月のラブレター』(幻冬舎刊 ISBN 9784344013254)が死後出版された。

死去の2ヵ月後に公開されたオムニバス映画『歌謡曲だよ、人生は』でヒロインの死病を告知する医師、同窓会の8ミリフィルム上映で小学生時代を回顧する初老男性の2役で出演しているが、撮影は自身が告知を受ける前だったといわれる。

一周忌を過ぎた2008年4月23日に、鈴木の所属していたホリプロの後輩である和田アキ子のデビュー40周年記念CDアルバム『わだ家』に、鈴木がボーカルを務めたモップスの代表曲「たどりついたらいつも雨ふり」の鈴木と和田のデュエットバージョンが収録される。生前の鈴木の歌声に和田が新たに歌入れをした。

モップスのGS末期、モップス解散時、短期間の在米時など、引退を考えたことがあった(『EXIT』、『鶴ちゃんのプッツン5』で語る)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E3%83%92%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%83%84




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1 十返舎一九
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39 2011-9-2 13:40:39  [返信] [編集]

戒名「心月院一九日光居士」

江戸時代後期の大衆作家、浮世絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。

武士の子として、駿府(現在の静岡市)府中に生まれた。葵区両替町一丁目に、生誕の碑が建っている。本名は重田貞一(さだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す。

江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大阪へ移り、町奉行小田切土佐守に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E8%BF%94%E8%88%8E%E4%B8%80%E4%B9%9D




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1 ジャンボ鶴田
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39 2011-9-2 13:37:24  [返信] [編集]

戒名「空大勝院光岳常照居士」

本名、鶴田 友美(つるた ともみ)。ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長し、1980年代、トップレスラーとして活躍したが、B型肝炎を発症したことにより第一線を退く。その後、桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を勤めるなど、教育者としても活躍した。

山梨県東山梨郡牧丘町(現山梨市)出身。山梨県立日川高等学校を経て、中央大学を卒業。血液型O型。ニックネームは「若大将」のち「怪物」。座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承したもの。

オリンピック出場時の選手名簿には、身長194cm、体重112kgとある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9C%E9%B6%B4%E7%94%B0


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1 子母沢寛
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39 2011-9-2 13:27:03  [返信] [編集]

戒名「慧光院文宗寛居士」

祖父の梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎又は鉄五郎)は、幕府から切り米20俵をもらっていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れて捕虜となったが釈放され、 札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩の漁村・厚田で漁場を持った。 この祖父は網元で、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営した村の顔役だった。御家人くずれのやくざ風な人だったらしい。 創価学会第2代会長戸田城聖と同郷で少年期よりの知己である。後に子母澤の出版を戸田の会社が受け持っており、相当数の著作を発表している。 子母澤寛も厚田に生まれ、早くに実母と別れ、祖父に溺愛されて育った。

旧制北海中学校(現北海高等学校)、明治大学法学部卒業。 はじめは弁護士志望だったが、帰郷して材木会社に勤め、 1918年(26歳)で再び上京し、電気商に勤め、 翌1919年読売新聞社に入社。さらに1926年(34歳)に東京日日新聞に移り、新聞記者をするかたわらで、尾佐竹猛らの指導で旧幕臣の聞き書きをまとめ、1928年『新選組始末記』を出す。その後、『新選組遺聞』『新選組物語』の「新選組三部作」を出版し、その後の作家ら(司馬遼太郎・池波正太郎など)に引用される。

代表作に『勝海舟』(大河ドラマ『勝海舟』原作)など。随筆に『座頭市』のもととなった『ふところ手帖』がある。1962年第10回菊池寛賞。

筆名は居住地の東京市大森区新井宿(現在の東京都大田区中央四丁目)子母沢より。「寛」は語呂がよかったからだという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%AF%8D%E6%BE%A4%E5%AF%9B


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