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関孝和
39
管理人

39 2011-10-4 11:00:23  [返信] [編集]

戒名「法行院殿宗達日心大居士」

生年は寛永12年(1635年)から寛永20年(1643年)の間で諸説あり、はっきりしない。上野国藤岡(現在の群馬県藤岡市)で生まれたという説と、江戸(現在の東京都)で生まれたという説がある。実父が寛永16年に藤岡から江戸に移っているので、生年がそれ以前ならば生地は藤岡、それ以後なら生地は江戸と推測される。関の生涯については、あまり多くが伝わっていない。養子である関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである。

若くして関家の養子となる。幼少時から吉田光由の『塵劫記』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重・綱豊(徳川家宣)に仕え、勘定吟味役となる。綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。孝和は甲府藩における国絵図(甲斐国絵図[1])作成に関わり、また改暦に備えて授時暦を深く研究して改暦の機会を窺っていたが、その後渋川春海によって貞享暦が作られ、暦学において功績を挙げることは叶わなかった。

関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に宋金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術、てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。行列式や終結式の概念を、世界で最も早い時期に提案したことはよく知られる。

また、1681年頃には暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、正131072角形を使って小数第11位まで算出した[2][3]。本計算では エイトケンの加速法を用いており、世界的にみても数値的加速法の最も早い適用例の一つである(西洋でエイトケンの加速法が再発見されたのは1876年、H.von.Nägelsbachによってである[4][3]。)。ヤコブ・ベルヌーイと同時期にベルヌーイ数を発見していたことも知られている。

西洋の微分積分学の発展とは独立に、方程式の求根の際に導関数に相当するものを計算したり、求長や求積に関する業績を挙げている。これをもって、ニュートンやライプニッツよりも前に微分積分学を創始したと語られることがあるが、関が微分と積分を結びつけたという事実はなく、これは妥当な評価とはいえない[5]。

宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去した。牛込弁天町(現在の東京都新宿区)の浄輪寺に葬られている。弟子に建部賢弘、荒木村英がいる。関の死後、その学統(関流)は目覚ましく発展し、山路主住に至り免許制度などを整え、和算の圧倒的な中心勢力になる。有力な和算家はほとんどが関流に属するようになっていった。

関孝和は関流の始祖として、算聖と崇められた。明治以後、和算が数学にとって代わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。上毛かるたにおいて、関孝和は「和算の大家 関孝和」と詠われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D%E5%92%8C

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/03-55.html


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
千利休
39
管理人

39 2011-10-4 10:57:31  [返信] [編集]

戒名「利休宗易居士」

幼名は与四郎(與四郎)、のち法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。

広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は諱の「宗易」を使用し、後に宮中参内に際して字の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。

号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。なお『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだものだという説も一部にあるようである。いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/03-85.html


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
鈴木大拙
39
管理人

39 2011-10-1 17:32:38  [返信] [編集]

戒名「也風流庵大拙居士」

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎(ていたろう)、英: D. T. Suzuki (Daisetsu Teitaro Suzuki)、1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 

名の「大拙」は居士号である。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校(後の第四高等学校)以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/03-23.html


本寿院 住職 三浦尊明
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鈴木三重吉
39
管理人

39 2011-10-1 17:28:28  [返信] [編集]

戒名「天真院啓迪日重居士」

鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年(明治15年)9月29日 - 1936年(昭和11年)6月27日)は、広島県広島市出身の小説家・児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E4%B8%89%E9%87%8D%E5%90%89

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/01-38.html


本寿院 住職 三浦尊明
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角倉了以
39
管理人

39 2011-10-1 17:22:34  [返信] [編集]

戒名「珪應了以大居士」

角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国期の京都の豪商。

朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また幕命により富士川、天竜川等の開削を行った。地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。

長男に角倉素庵、弟に吉田宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%80%89%E4%BA%86%E4%BB%A5

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/02-4.html



本寿院 住職 三浦尊明
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初代 實川延若
39
管理人

39 2011-10-1 17:10:44  [返信] [編集]

戒名「天遊院延若日輝居士」

初代 實川 延若(しょだい じつかわ えんじゃく、新字体:実川、天保2年6月23日(1831年7月31日) - 明治18年(1885年)9月18日)は、大坂出身の歌舞伎役者。本名は天星庄八(あまぼし しょうはち)。屋号は河内屋。定紋は重ね井筒、替紋は五つ雁金。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A6%E5%B7%9D%E5%BB%B6%E8%8B%A5_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-44.html


本寿院 住職 三浦尊明
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島村抱月
39
管理人

39 2011-10-1 17:08:29  [返信] [編集]

戒名「安祥院実相抱月居士」

島根県小国村(現浜田市)に佐々山一平の長男として生まれ、浜田町裁判所検事島村文耕の養子となる。

1894年東京専門学校(早稲田大学)卒業後、「早稲田文学」記者、1898年読売新聞社会部主任となり母校文学部講師となる。1902年から1905年まで、早稲田の海外留学生として英独留学。帰国後、早稲田大学文学部教授となり「早稲田文学」を主宰して自然主義運動のため大いに活躍する。

1906年に坪内逍遥とともに文芸協会を設立。しかし、1913年松井須磨子との恋愛が問題とされ、文芸協会を脱退。

同年、松井とともに芸術座を結成した。トルストイの小説を基に抱月が脚色した「復活」(1914年)の舞台が評判になり、各地で興行を行った。松井が歌う劇中歌「カチューシャの唄」は大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献した。1918年、抱月はスペイン風邪にかかり急逝。松井は抱月の死後、芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って自殺。芸術座も解散になった。

2004年、東京都豊島区の雑司が谷霊園と同区の浄光寺に分骨埋葬されていた遺骨が故郷の島根県金城町(現・浜田市)へ里帰りした。同霊園の墓はこれまで抱月の三女島村トシコ(東京都在住)が管理していたが、高齢のため管理が難しくなったこともあり、トシコから「遺骨を里帰りさせたい」と同町に打診があったという[1]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%9D%91%E6%8A%B1%E6%9C%88

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/01-63.html


本寿院 住職 三浦尊明
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初代 坂田藤十郎
39
管理人

39 2011-10-1 17:00:05  [返信] [編集]

戒名「重譽一室信士」

初代 坂田 藤十郎(しょだい さかた とうじゅうろう、正保4年(1647年) - 宝永6年11月1日(1709年12月1日))は、江戸時代の歌舞伎役者。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。元禄の時代を代表する名優で、上方歌舞伎の始祖の一人にかぞえられる。「役者道の開山」「希代の名人」などと呼ばれた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E7%94%B0%E8%97%A4%E5%8D%81%E9%83%8E_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-48.html


本寿院 住職 三浦尊明
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佐々成政
39
管理人

39 2011-10-1 16:57:32  [返信] [編集]

戒名「成政寺殿奥州太守四品庭月道閑居士」

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。尾張国出身。父は佐々成宗(盛政とも)。通称内蔵助(くらのすけ)。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院)の外祖父。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/04-72.html


本寿院 住職 三浦尊明
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園山俊二
39
管理人

39 2011-9-2 13:50:33  [返信] [編集]

戒名「月照院梅園俊道居士」

島根県松江市外中原町生まれ[1]。島根大学教育学部附属小学校から同附属中学校を経て島根県立松江北高等学校卒業。早稲田大学商学部在学中、早稲田大学漫画研究会を創設[1]。後輩の福地泡介、東海林さだおと共に、「早大漫研三羽烏」と称され注目される。大学を卒業してからしとうきねおの世話で広告代理店に就職するも半日で辞職[2]。その後、寺田ヒロオの紹介で、新漫画党に加入。トキワ荘の漫画家たちと交流を深める。趣味はプロ雀士顔負けの強さの麻雀。

プロデビューは、「がんばれゴンベ」(1958年、毎日小学生新聞)。その後、児童もの・大人もの等の作品を多数発表。1976年、「ギャートルズ」等で第22回文藝春秋漫画賞受賞。1977年、「がんばれゴンベ」で日本漫画家協会賞特別賞受賞。

連載通算9775回まで到達した「がんばれゴンベ」および、朝日新聞で「サザエさん」完結を受けて「フジ三太郎」とともに13年間連載が続いた「ペエスケ」を、1992年7月、ぎっくり腰による入院のため中断・終了する(入院中の近況報告で描写)。翌年1月、肝不全のため死去、57歳没。

「メソメソシルナ 世の中グワンバレ」と遺書を残す。病床でペエスケ、ヒロコ、平太、ガタピシなど「ペエスケ」の主要キャラクターをひとりひとり描いて別れを告げたという。1993年1月21日付の朝日新聞朝刊に、園山の追悼特集が1ページ半で掲載された。内容は、園山が死の直前に書いた動物の絵と、大学時代から親交が深かった東海林さだおの追悼文であった。

「シッカ(しっかりと握って離さない状況を示す)」など、ユーモラスな擬音を多く用いた。また、メスのカエルに乳房を描くなどの擬人化表現が見られる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E5%B1%B1%E4%BF%8A%E4%BA%8C


本寿院 住職 三浦尊明
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関孝和
39
管理人

39 2011-9-2 13:48:07  [返信] [編集]

戒名「法行院殿宗達日心大居士」

生年は寛永12年(1635年)から寛永20年(1643年)の間で諸説あり、はっきりしない。上野国藤岡(現在の群馬県藤岡市)で生まれたという説と、江戸(現在の東京都)で生まれたという説がある。実父が寛永16年に藤岡から江戸に移っているので、生年がそれ以前ならば生地は藤岡、それ以後なら生地は江戸と推測される。関の生涯については、あまり多くが伝わっていない。養子である関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである。

若くして関家の養子となる。幼少時から吉田光由の『塵劫記』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重・綱豊(徳川家宣)に仕え、勘定吟味役となる。綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。孝和は甲府藩における国絵図(甲斐国絵図[1])作成に関わり、また改暦に備えて授時暦を深く研究して改暦の機会を窺っていたが、その後渋川春海によって貞享暦が作られ、暦学において功績を挙げることは叶わなかった。

関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に宋金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術、てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。行列式や終結式の概念を、世界で最も早い時期に提案したことはよく知られる。

また、1681年頃には暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、正131072角形を使って小数第11位まで算出した[2][3]。本計算では エイトケンの加速法を用いており、世界的にみても数値的加速法の最も早い適用例の一つである(西洋でエイトケンの加速法が再発見されたのは1876年、H.von.Nägelsbachによってである[4][3]。)。ヤコブ・ベルヌーイと同時期にベルヌーイ数を発見していたことも知られている。

西洋の微分積分学の発展とは独立に、方程式の求根の際に導関数に相当するものを計算したり、求長や求積に関する業績を挙げている。これをもって、ニュートンやライプニッツよりも前に微分積分学を創始したと語られることがあるが、関が微分と積分を結びつけたという事実はなく、これは妥当な評価とはいえない[5]。

宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去した。牛込弁天町(現在の東京都新宿区)の浄輪寺に葬られている。弟子に建部賢弘、荒木村英がいる。関の死後、その学統(関流)は目覚ましく発展し、山路主住に至り免許制度などを整え、和算の圧倒的な中心勢力になる。有力な和算家はほとんどが関流に属するようになっていった。

関孝和は関流の始祖として、算聖と崇められた。明治以後、和算が数学にとって代わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。上毛かるたにおいて、関孝和は「和算の大家 関孝和」と詠われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D%E5%92%8C


本寿院 住職 三浦尊明
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鈴木ヒロミツ
39
管理人

39 2011-9-2 13:44:28  [返信] [編集]

戒名「美雄永満愛大喜善居士」

満州生まれ。私立芝高等学校卒業。武蔵大学経済学部中退。東京都文京区旧・小日向台町出身。

1967年にデビュー(結成は前年)したザ・モップスのボーカリストとして芸能界入り。モップス時代は「鈴木ひろみつ」「鈴木博三」とも表記。

詳細は「ザ・モップス」を参照

ザ・モップスが1974年に解散して以降、俳優・タレントとして活躍。1971年に放映されたモービル石油のCM「のんびり行こうよ」編ではガス欠のクラシックカーを押す青年の役を演じ、昭和の名CMの一つとなった。1974年からTBSで放送された大映テレビ製作の刑事ドラマ『夜明けの刑事』、『新・夜明けの刑事』、『明日の刑事』にうだつの上がらない刑事役で出演、エンディング・テーマも担当した。

芸能界きっての美食家としても知られ、紀行番組のグルメリポーターとしても活躍、2002年に自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本『食わずに死ねるか!』を出版した。

また、大の中日ドラゴンズのファンで(実の母親が名古屋市生まれだった)、東海テレビのドラゴンズ応援番組『ヒロミツのスーパードラゴンズ』(『ドラゴンズHOTスタジオ』の前身)ではメイン司会を務め、多くの選手や首脳陣と親交があった。しかし番組内で「こんなことなら、星野ドラゴンズって名前を変えればいいんですよ」と星野仙一監督を批判、このことが原因で番組を降板している。

NHK教育テレビで、中学生向けの英語番組の司会もつとめていた。

2007年3月14日午前10時02分、肝細胞癌のため東京都千代田区の病院で死去。60歳没 。医師の診察を受けた際には既に病状が進行しており、告知も冷静に受け止めた。入院治療より家族とともに過ごすことを選んだ。戒名は「美雄永満愛大喜善居士」で、その戒名は生前に決めていたと言う。戒名には自分の名や家族の名前の一部が入っており、家族を愛する気持ちが込められている。亡くなる1週間前に行ったインタビューと、病床で書いた妻と子供への手紙をまとめた単行本『余命三カ月のラブレター』(幻冬舎刊 ISBN 9784344013254)が死後出版された。

死去の2ヵ月後に公開されたオムニバス映画『歌謡曲だよ、人生は』でヒロインの死病を告知する医師、同窓会の8ミリフィルム上映で小学生時代を回顧する初老男性の2役で出演しているが、撮影は自身が告知を受ける前だったといわれる。

一周忌を過ぎた2008年4月23日に、鈴木の所属していたホリプロの後輩である和田アキ子のデビュー40周年記念CDアルバム『わだ家』に、鈴木がボーカルを務めたモップスの代表曲「たどりついたらいつも雨ふり」の鈴木と和田のデュエットバージョンが収録される。生前の鈴木の歌声に和田が新たに歌入れをした。

モップスのGS末期、モップス解散時、短期間の在米時など、引退を考えたことがあった(『EXIT』、『鶴ちゃんのプッツン5』で語る)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E3%83%92%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%83%84




本寿院 住職 三浦尊明
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十返舎一九
39
管理人

39 2011-9-2 13:40:39  [返信] [編集]

戒名「心月院一九日光居士」

江戸時代後期の大衆作家、浮世絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。

武士の子として、駿府(現在の静岡市)府中に生まれた。葵区両替町一丁目に、生誕の碑が建っている。本名は重田貞一(さだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す。

江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大阪へ移り、町奉行小田切土佐守に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E8%BF%94%E8%88%8E%E4%B8%80%E4%B9%9D




本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
ジャンボ鶴田
39
管理人

39 2011-9-2 13:37:24  [返信] [編集]

戒名「空大勝院光岳常照居士」

本名、鶴田 友美(つるた ともみ)。ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長し、1980年代、トップレスラーとして活躍したが、B型肝炎を発症したことにより第一線を退く。その後、桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を勤めるなど、教育者としても活躍した。

山梨県東山梨郡牧丘町(現山梨市)出身。山梨県立日川高等学校を経て、中央大学を卒業。血液型O型。ニックネームは「若大将」のち「怪物」。座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承したもの。

オリンピック出場時の選手名簿には、身長194cm、体重112kgとある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9C%E9%B6%B4%E7%94%B0


本寿院 住職 三浦尊明
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子母沢寛
39
管理人

39 2011-9-2 13:27:03  [返信] [編集]

戒名「慧光院文宗寛居士」

祖父の梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎又は鉄五郎)は、幕府から切り米20俵をもらっていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れて捕虜となったが釈放され、 札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩の漁村・厚田で漁場を持った。 この祖父は網元で、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営した村の顔役だった。御家人くずれのやくざ風な人だったらしい。 創価学会第2代会長戸田城聖と同郷で少年期よりの知己である。後に子母澤の出版を戸田の会社が受け持っており、相当数の著作を発表している。 子母澤寛も厚田に生まれ、早くに実母と別れ、祖父に溺愛されて育った。

旧制北海中学校(現北海高等学校)、明治大学法学部卒業。 はじめは弁護士志望だったが、帰郷して材木会社に勤め、 1918年(26歳)で再び上京し、電気商に勤め、 翌1919年読売新聞社に入社。さらに1926年(34歳)に東京日日新聞に移り、新聞記者をするかたわらで、尾佐竹猛らの指導で旧幕臣の聞き書きをまとめ、1928年『新選組始末記』を出す。その後、『新選組遺聞』『新選組物語』の「新選組三部作」を出版し、その後の作家ら(司馬遼太郎・池波正太郎など)に引用される。

代表作に『勝海舟』(大河ドラマ『勝海舟』原作)など。随筆に『座頭市』のもととなった『ふところ手帖』がある。1962年第10回菊池寛賞。

筆名は居住地の東京市大森区新井宿(現在の東京都大田区中央四丁目)子母沢より。「寛」は語呂がよかったからだという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%AF%8D%E6%BE%A4%E5%AF%9B


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島津斉彬
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39 2011-9-2 13:23:49  [返信] [編集]

戒名「順聖院殿英徳良雄大居士」

江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主(在任:嘉永4年(1851年) - 安政5年(1858年))。島津氏の第28代当主である。

第10代藩主・島津斉興の長男。母は因幡鳥取藩主・池田治道の娘・弥姫(周子)。没後に贈正一位。神号は照国大明神。

薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC




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島崎藤村
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39 2011-9-2 11:50:46  [返信] [編集]

戒名「文樹院静屋藤村居士」

日本の詩人、小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。

『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%97%A4%E6%9D%91




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澁澤龍彦
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39 2011-9-2 11:48:03  [返信] [編集]

戒名「文光院彩雲道龍居士」

日本の小説家、仏文学者、評論家。

別名のペンネームに澁川龍兒、蘭京太郎、Tasso S.などがある。晩年の号に呑珠庵、無聲道人がある。旧字を新字に直す慣例のある出版界でも珍しく、未だに名前の漢字全てが旧字体のまま出版されているが、澁澤自身は生前自らの名前が「竜」の字で代用されるのを嫌っており、「私は署名をするときにも、竜彦などとは間違っても書かない。(略)これはタツではなくて、尻尾の生えたカメみたいではないか」(『記憶の遠近法』所収「ドラゴン雑感」)と記している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%81%E6%BE%A4%E9%BE%8D%E5%BD%A6




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柴田練三郎
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39 2011-9-2 11:42:36  [返信] [編集]

戒名「蒼岳院殿雋圓月練哲大居士」



岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれる。

慶應義塾大学予科3年の時、『十円紙幣』を『三田文學』に発表する。1940年、齋藤エイ子と結婚、齋藤家の婿養子となり、齋藤錬三郎と名乗る。同年、慶應義塾大学文学部支那文学科卒業、日本出版協会に勤める。また同年、長女・美夏江が誕生している。

1942年に召集され、1945年に衛生兵として南方へ派遣される途中、バシー海峡にて敵襲に遭い、乗艦が撃沈、7時間漂流する。

戦後、田所太郎、大橋鎮子らと『日本読書新聞』の再刊にたずさわる。のち雑誌『書評』編集長となる。また『三田文學』等に文芸評論を発表する。

佐藤春夫に師事して、1949年に文筆活動に入り、1951年6月に『三田文學』に発表した『デス・マスク』が第25回芥川賞・第25回直木賞候補に入る。翌年『イエスの裔』で第26回直木賞を受賞した。同年の『真説河内山宗俊』発表以後は、時代小説を次々と発表した。

1956年(昭和31年)から、創刊されたばかりの『週刊新潮』に連載された『眠狂四郎』シリーズでは、戦後を代表するニヒル剣士の眠狂四郎を登場させ、読み切りという斬新な手法をとった連載手法と通俗的な要素を織り込み、剣豪小説の一大ブームを巻き起こし、「剣豪作家」のイメージが定着した。後期の現代小説では『チャンスは三度ある』などがある。1969年に『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞した。

随筆・エッセイも多数発表している。また、「3時のあなた」(フジテレビ)や「ほんものは誰だ?!」(日本テレビ)など、テレビ番組への出演も晩年まで積極的に行うなど、現代で言う文化人タレント的な一面も持っていた。

肺性心のため、慶應義塾大学病院で死去した。享年61。墓所は東京都文京区の伝通院。

遺作は、赤穂浪士ものの『復讐四十七士』(未完)。『柴田錬三郎選集』(集英社全18巻)、また澤辺成徳『無頼の河は清冽なり 柴田錬三郎伝』(集英社、1992年)がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E9%8C%AC%E4%B8%89%E9%83%8E


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司馬遼太郎
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39 2011-9-2 11:36:49  [返信] [編集]

戒名「遼望院釋淨定」

日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。

産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E

司馬遼太郎記念館
http://www.shibazaidan.or.jp/





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