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1 宮沢賢治
39
管理人

39 2011-9-6 15:14  [返信] [編集]

戒名「真金院三不日賢善男子」

1896年(明治29年)8月27日、岩手県稗貫郡里川口村(のちに花巻川口町から花巻町を経て、現・花巻市)に質・古着商の宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、戸籍の届出は1896年8月1日付けでなされた。
賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。また誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。この地震の際に母は賢治の入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという[2]。
浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育つ。弟に清六(1904年 - 2001年)、妹にトシ(1898年 -1922年)、シゲ(1901年-1987年)、クニ(1907年 - 1981年)がいる。
質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に当てる姿をたびたび目撃、これが賢治の人間形成に大きく影響したと見られる。
1903年(明治36年)、花巻川口尋常高等小学校に入学。エクトール・アンリ・マロの『家なき子』などの童話を好み、石や昆虫を採集し、綴り方に長じていた。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」と呼ばれる。父と有志が始めた「我信念」と題する仏教講話に参加。
1909年(明治42年)、旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく[3]。岩手山・南昌山などの山登りにも熱中し、南昌山では寄宿舎で同室の藤原健次郎(賢治より1学年上。1910年没)と水晶を採集する。哲学書を愛読。在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、大正2年(1913年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿する。
1914年(大正3年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。この時、看護婦に恋心を抱くが片想いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける[4]。
1915年(大正4年)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学。関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究をする。大正6年(1917年)、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』を創刊。短歌・小文などを発表する。
1918年(大正7年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し、卒業。4月、研究生となる。卒業で徴兵猶予の特典が無くなったため、徴兵検査を受けて第二乙種合格となる(当時は、第二乙種には兵役は課せられなかった)。 この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で研究生を退学処分となり、以後数年間に渡って保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。 同年肋膜炎を患い、医師の診断を受ける。このとき河本義行に「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされる。
1919年(大正8年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。この滞京中に友人宅で萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。近角常観の求道学舎にも訪れている。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。トシ回復とともに岩手に戻る。
1920年(大正9年)、研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会に入信。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが決裂(7月18日)。
1921年(大正10年)、1月23日家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう[5]。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。翌年11月にトシ病死。
1923年(大正12年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
1924年(大正13年)、4月、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。
1925年(大正14年)、7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。
1926年(大正15年)、3月末で農学校を退職。羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。またヒューマニストとして労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。
1927年(昭和2年)、3月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。
1928年(昭和3年)、6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
1931年(昭和6年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動も行った。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯独身であった。死の前日、農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している[6]。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状[2]には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている[7]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB

宮沢賢治記念館
http://www.miyazawa-kenji.com/kinenkan.html


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
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