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1 佐久間象山
39
管理人

39 2011-9-2 10:21  [返信] [編集]

戒名「清光院仁啓守心居士」

文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。

象山の号は近隣の黄檗宗象山恵明禅寺に因んだとされる。その呼称については、一般に”しょうざん”、地元では”ぞうざん”と呼ばれており、弘化2年(1845年)に象山自身が松代本誓寺への奉納文書に「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」として、反切法を用いて”しょうざん”と呼ぶように書き残している。象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。

天保4年(1833年)に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。

ところが天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍の下で、兵学を学ぶことになる。

温厚で思慮深いという評判の江川は象山のことを嫌っていたようである。洋式砲術を使った戦略を短期間で習得することは江川の「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法では支障があり、象山の意を汲んだ同じ高島流の下曽根信敦から文書をかり学習を進めた。象山の教育に対する態度は近代的で、自分が書物から学んだことは、公開を基本とした。自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、必要のないことを説明し断っている。

学問に対する態度は、小林虎三郎へ送った次の文書からも窺うことができる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1


本寿院 住職 三浦尊明
http://111.or.jp/
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