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1 古今亭志ん正(5代目)
39
管理人

39 2011-9-1 16:45  [返信] [編集]

戒名「松風院孝譽彩雲志ん正居士」

東京・神田亀住町の生まれ。出自は高位の士族。生家は徳川直参旗本であった美濃部家で、菅原道真の末裔を称する(『午後は○○おもいッきりテレビ』の「きょうは何の日」コーナー)。
祖父までは徳川家の槍指南番をしていたが、父が道楽者で、明治維新の際の支給金を遊興ですべて使い果たした(なお、この頃、「ステテコの遊遊」こと初代三遊亭圓遊と親密だったという)。志ん生が生まれた頃は、父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てで寄席通いをした。
天狗連三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎。)の門で三遊亭盛朝を名乗る。後に当時名人といわれた4代目橘家圓喬に入門(前座名から考えて、事実は2代目三遊亭小圓朝に入門ではないか、つまり名人圓喬の弟子であったというのは志ん生の見栄ではないかという説も存在する)、三遊亭朝太から三遊亭圓菊を名乗り二つ目になる。後の4代目古今亭志ん生門に移籍後、真打昇進。1939年に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名したという(詳細は#改名遍歴参照)。
1922年清水りんと結婚。
1924年1月12日長女・美津子、1925年10月7日次女・喜美子(後の三味線豊太郎)、1928年1月5日長男・清(後の10代目金原亭馬生)、1938年3月10日次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる
一度、講釈師になり、再度、落語家に復帰した甚語楼時代は、前座同然の扱いで貧窮極まる。この時代、浅草・橋場に親の貸家があり、その借家料で暮らしながら劇作家の修行をしていた「染物屋の若旦那」である宇野信夫のうちによく出入りして、世話になっていた。
1941年、神田花月で毎月独演会を開始。
1945年、物資不足で満足に酒が飲めなくなったとの理由で、6代目三遊亭圓生と共に物資豊富と言われていた満州に慰問芸人として渡る。もっともこの理由は後年自ら語った物であり、実態は第三者からの依頼によるものと思われる。1947年1月12日、命からがら満州から帰国。同月27日帰宅。帰国後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ出演なども多くこなす売れっ子となった。「天衣無縫」ともいわれる芸風は唯一無二のものであり、巧拙を超えた面白さは他の追随を許さず、また誰にも真似の出来ないものであった(後年、名人と呼ばれるようになった息子志ん朝は、「第二の文楽は出るかもしれないが、第二の志ん生は出ないでしょう」と語っている。また、「完成した志ん生」を見ると「天衣無縫」と思えるが、実際は売れない時代が多く、芸について苦労して非常に考えた上で、あの芸風を苦心して作りあげたことが、同時代人の証言から伺える)。
「高座に座る姿そのものが一枚の絵であり、落語である」とまで言われた志ん生であるが、現代では考えられないようなエピソードにも事欠かない。ある日、志ん生は酔っ払ったまま高座に上がって、そのまま居眠りを始めてしまった。それを見た客は怒るどころか粋なもので、「いいから寝かしてやろうじゃねえか」「酔っ払った志ん生なんざ滅多に見られるもんじゃねえ」と、寝たままの志ん生を楽しそうに眺めていたという。しかし、この客が言った「寝かしてやろう」は、実は3代目三遊亭圓歌が作ったエピソードであり、圓歌本人が語っている。
圓生は絶妙な間や気品といった話芸を磨いて落語を究めた対照的な名人であったが、圓生は「あの人(志ん生)とは道場の試合(圓生のファンは「圓生信者」と言っていいほど熱狂的だったので、その客がいる席なら、という意味)では勝てますが、野天の試合(真剣勝負)じゃあ勝てやせん。」と芸の差を剣道に例えて脱帽させたほどであった。
1949年の新東宝の映画『銀座カンカン娘』に落語家、桜亭新笑役で出演し『替わり目』を7分近く演じている(また、独りで『疝気の虫』を稽古しているシーンもある)。この映画は、志ん生が演じる落語の映像としてはもっとも古いものである。
娘が2代目三遊亭円歌の息子と結婚したため、一時は姻戚関係があった。(ただし、後に離婚)
1957年に8代目桂文楽の後任で落語協会4代目会長就任。以後1963年まで会長を務めた。
志ん生の後任の会長を選出する際、一部で2代目円歌を後任に推す動きがあり、2代目円歌本人も会長就任に意欲を示していたのに対し、志ん生は「人気や活躍の期間では2代目円歌の方が上だが、芸の力量では圓生の方が上」と判断し力量重視で圓生を後任に推したため、対立を回避するために8代目文楽が会長に復帰して決着した。結局は1964年に2代目円歌が亡くなったため、翌1965年に圓生が会長に就任することとなる。
1956年「お直し」で、芸術祭賞受賞。
1961年暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳溢血を発す。3ヵ月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。この時を境に志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。その後、半身不随となったため上方落語のように前に演台を置きそこに左手を置いて高座を務めた。
幾たびも師匠替え・改名をしている事で有名で、長く貧乏生活を送ってきた事による借金からの逃亡と酒による放蕩ぶりが祟ったものとも言われている。
貧乏暮らし、酒と実生活も落語の世界そのものであり、数限りない逸話を残している。関東大震災のときは、酒が地面にこぼれるといけないと真っ先に酒屋へかけこみ、酒を買おうとしたという。また、戦時中、既に東京が空襲にあっている頃、漫談家の初代大辻司郎に「ビールを飲ましてあげるからいらっしゃい」と招かれて数寄屋橋に出かけ、しこたま呑んだ後、お土産にビールを詰めた大きな土瓶を貰うが、帰宅中に空襲が始まり「どうせ死ぬならビールを残してはもったいない」と全て飲み干し、酔っ払ってそのまま寝入ってしまった。あくる朝、奇跡的に無傷のまま目覚めて帰宅。家では「志ん生は空襲で死んだらしい」とあきらめられていたと言う。
また、満州にいて終戦を迎えたものの、混乱状態の満州から日本への帰国の目処が付かず、1946年頃の国内では「志ん生は満州で死んだらしい」と噂が流れていた。実際本人も今後を悲観して、支援者から「強い酒なので一気に飲んだら死んでしまう」と注意されたウォッカ一箱を飲み干し、数日間意識不明になったことがあった。その後意識を回復した志ん生は、「死なないのなら少しずつ飲めばよかった」と言ったという、まさに落語を地でいく逸話が残っている。
TBSラジオの専属時代に他局に出演したが、それを指摘されて「何かい、専属ってのは他に出ちゃいけないのかい?」と訊ね、TBSの方も「志ん生だからしょうがない」といって諦めたというエピソードもある。後に解除されニッポン放送の専属となる。
上方でも文楽等と共に戎橋松竹等の寄席に上がる事があったが、当時上方はトリオ漫才(かしまし娘等)の全盛期で客席には漫才を見に来た団体客が多く、落語は(志ん生でさえ)まったく受けなかった。その為か志ん生は任された持ち時間を守らずにすぐ切り上げてしまい、次の出番の芸人を困らせていた。
1964年に自伝『びんぼう自慢』を刊行、さらに5年後に加筆して再刊されたが、本人は正規の学校教育を受けていなかった為か字は読めても書けず、小島貞二による聞き書きである。同年に紫綬褒章受章。
1968年に上野鈴本演芸場初席が最後の高座となった。この時、『二階ぞめき』を演じていたはずが途中で『王子の狐』に変わってしまったことを長女の美濃部美津子に指摘されて衝撃を受け、以後の高座を降りた。但し、高座に上がる気持ちは持っていた。
1971年12月9日に妻りんが亡くなり、12月11日に葬儀を行った翌日に文楽が亡くなったが、妻の葬儀で号泣しなかった志ん生は、文楽の葬儀では号泣した。
余芸として味のある端唄などを得意とした。元・慶應義塾々長小泉信三は志ん生の『大津絵』を聴き、たびたび目頭を濡らしたといわれている。
1973年自宅で死去した。享年83。戒名は、「松風院孝誉彩雲志ん生居士」墓所は文京区小日向の環国寺。現在では同じ墓に馬生、志ん朝も眠っている。
晩年は寄席に出ず引退同様であったが(家族が健康面を考慮したため)、高座に上がる気持は持ち続けていた。1971年ごろ、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ね二人は心行くまで歓談したが、別れ際に志ん生は「今度は二人会の相談をしようよ」と文楽に呼びかけていたと家族が証言している。その文楽の訃報を聞いた志ん生はこう呟いたという。「あの野郎、おれの面倒を見るって言ってたのに先に逝っちめいやがった。何やってんだか・・・。」

噺に出てくる登場人物の名前はかなりいい加減で、最初の「熊さん」から最後には「八っつあん」に代わるなど日常茶飯事であった。息子馬生が「お父ちゃん、あの人の名は何だっけ?」と問うと「何言ってやんでえ。そんなものア何だっていいんだよ」と答えたり、噺の途中でも「ええ…その名前はですな…まあどうでもいい名前」と何食わぬ顔で済ませたりするなど、登場人物の名を忘れて高座を去った文楽とは好対照であった。

21世紀に入った現在もなお、録音がCDなどの媒体で流通しており、志ん生の落語を聞く事は比較的容易である。その一方で映像として残っている志ん生の姿は少ない。数作の映画出演とNHKの出演(『あの人に会いたい』で放送されている。)

気に入らぬ客があるといい加減な噺で切り上げ、「ぞろっぺいな」と周囲を呆れさせていた。ある日、数名の酔客に「いよっ!ハゲ!」「がんばれ!じいさん!」とヤジを飛ばされたとき、志ん生は無視して逆にじっくりと噺を演じた。酔客は黙ってしまい志ん生が退場すると大きな拍手を送っていた。

1958年10月11日、第六十七回三越落語会で、志ん生はトリで『黄金餅』を演じる予定であったが8代目林家正蔵(後の林家彦六)がその前に似たような内容の『藁人形』を演じてしまった。同じ傾向の噺をするのは「つく」と呼ばれタブーであったが、これは落語会の事務関係者のミスであった。志ん生は「どうも、噺がつきますんで・・・アアこの同じ噺ってのは具合が悪いのでナ。ここはあたくしにまかしていただいて。」と断って、手持ちの噺の中から艶笑噺の『鈴振り』を選んでこれをたっぷりと演じた。

芸にはプライドを持っていて、ある落語会で「牡丹灯篭・御札はがし」を演じることになり、志ん生は「これは、生半可なことじゃあできねえんだから、ワリ(出演料)に『牡丹灯籠代』がつくよ。」と言い出して関係者を困らせた。このゴタゴタでやる気をなくしたのか高座ではさんざんな出来であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BA%AD%E5%BF%97%E3%82%93%E7%94%9F_(5%E4%BB%A3%E7%9B%AE)


本寿院 住職 三浦尊明
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